被害者への謝罪は一度もなかった
はたして、私は彼女について少しでも知ることができたのだろうか。
発言のなかには多くの噓が紛れ込み、なかには検証できないものも少なくない。しかも、本人みずから認知症であることを主張しており、都合の悪いことについては「憶えてない」と対応することも可能だ。
さらにいえば、彼女自身は減刑への道をいまだに探っており、ときおり口を滑らすことはあっても、次の機会には修正するなど、自己に不利な内容を、懺悔といったかたちで明かすようなことはなかった。
そうしたなかで、事実として存在するのは、これまでに千佐子の口から被害者への謝罪は一度もなかったということ。それは、彼女にとっては、自分がどうあるかということだけが唯一の重大事であり、そのために他者がどうなろうとも、関心の埒外だということを示している気がしてならない。
きっと、千佐子は被害者に対していまだに思っているに違いない。これまで老い先短いあなたたちに、私は良くしてきたじゃない。だから当然の対価を貰っただけ、と。
見た目が“普通のおばちゃん”である千佐子の内面に、そうした無機質な感情が宿っていることについて、私は例えようのない恐怖を感じる。
もし、橘さんの死が事件として扱われなかったら、彼女の背後に屍の山はまだまだ積み重なっていたことだろう。
これまでの生き様を表す「後妻業」の「業」という字は、千佐子にとって、仕事を意味する「ぎょう」ではなく、彼女の心に棲みついた「ごう」だったのである。
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