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 通りがかった祭司やレビ人は、この人を避けて道の向こう側を通っていきます。しかし、旅をしていた一人のサマリア人は、この人を手当てして宿屋まで連れていき、翌朝、面倒を見てくれるよう宿屋の主人にお金まで残して去っていく。祭司もレビ人も、ユダヤ教の祭儀に関わる中心的な存在です。サマリア人は、ユダヤ人と征服者であるアッシリア人とのあいだに生まれた人々で、ユダヤ教の正統的なあり方から外れた存在だと、ユダヤ人たちから差別されていました。祭司やレビ人が助けないどころか避けていくのは、当時のユダヤ教の教えでは、単に関わり合いになりたくないというだけではなく、死体が穢れだったので、生きているのか死んでいるのか分からない被害者に触れるのを恐れたからです。

 イエスは、律法学者の問いを、微妙な仕方で、でも決定的に変容させます。律法学者の問いは隣人を定義し、どこまでが隣人でどこから先は隣人ではないのかという枠を作ろうとしていますが、イエスは、むしろ枠を超えて関わっていくことによって「隣人となる」という態度をとる。イエスは律法学者に、「さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか(10章36節)」と問います。さすがに律法学者も、祭司やレビ人とは答えられない。しかし、サマリア人だとは言いたくないから、「憐れみを施した人です(10章37節)」という微妙な答え方をするのですね。

誰もが「危機」に瀕していた

 今回の対談のテーマの「危機」という枠組みでこのたとえ話を解釈するとすれば、多くの人は、このたとえ話のなかで危機に瀕していたのは強盗に襲われた人だと答えるでしょう。ですが、私としては、強盗に襲われた人だけでなく、彼のそばを通り過ぎた一人一人もまた、「危機」に直面していたと捉えたいのです。

 われわれは常に何らかの仕方で分かれ目に直面している。助けを求めている人たちに、自分が何かできるかもしれない状況に呼びかけられ、自分のとるべき行動を決定すべき分かれ目に人間は常に直面している、そんな物語として読むこともできると思います。そうした一つ一つの「分かれ目」「危機」にどのように直面してきたかということの積み重ねが、いわば私という人間を定義しているとも言えるわけです。

若松 「善きサマリア人」の話は、『新約聖書』で、もっとも有名な場面の一つですが、今の山本さんの「読み」は、危機にある現在に鋭く響き、じつに新鮮だと思いました。古い言葉を新生させる。これがまさに神学の仕事ですね。「善きサマリア人」の話が重要なのは、そこに登場するのはイエスを受け容れた人の話ではない、ということです。『新約聖書』のほかの箇所を読むと、サマリア人はイエスを拒んだ人としても描かれている。そういう人の善行をイエスは正当に語っているわけです。イエスが生きている時代ですから、キリスト者という言葉は適当ではないのですが、イエスが、自分の教えの本質を、非キリスト者という存在を通じて語っている。このことの意味も考え直してみたいと思います。