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文学者で、教師で、翻訳者…須賀敦子という「日本文学史の特異点」はいかにして生まれたのか

著者は語る 『霧の彼方 須賀敦子』(若松英輔 著)

『霧の彼方 須賀敦子』(若松英輔 著)集英社

 61歳で刊行した『ミラノ 霧の風景』を皮切りに、『コルシア書店の仲間たち』などの回想記を亡くなる69歳まで発表し続け、日本文学史の中で特異な輝きを放つ須賀敦子。その生活と作品を、カトリック信仰、読書遍歴、翻訳者としての仕事、社会福祉活動、教師として教え子に遺したものなどから重層的に読み解いた評伝が誕生した。著者の若松さんは、須賀さんが亡くなってから初めてその著作に触れたという。

「2007年に『三田文学』で新人賞をもらい、書く場を与えられるようになり、最初に書いたのが須賀敦子論でした。一冊も読んだことのなかった僕に依頼してきたのは、当時の編集長の加藤宗哉さんで、遠藤周作の愛弟子です。一方、僕の師匠の井上洋治神父は遠藤周作の親友だった。だからカトリックである僕に、遠藤周作の同時代人でありながら、あまり世にカトリックであることを知られていなかった須賀さんのことを書かせたら面白いのではないか、と思われたようです」

「すぐ本に読まれる」と母から叱られるほど幼い頃から本の虫だった様子や、サン=テグジュペリやシモーヌ・ヴェイユなど彼女を陶冶した書物の数々、イタリアから帰国後の一時期「エマウス運動」という廃品回収に身を捧げたこと、上智大学の常勤講師だった時に『神曲』を原書で読みたい、という男子学生を教え、彼はのちに日本におけるダンテ研究の第一人者となった藤谷道夫氏であることなど、作家として世に出る前の須賀の姿が次々と読者の目の前に甦る。タブッキ『インド夜想曲』などイタリア文学の翻訳者としても知られるが、夫ペッピーノと書肆「コルシア書店」で活動していた60年代、多くの近現代日本文学をイタリア語に翻訳していた。

「漱石、鴎外などを訳してボンピアーニ社の『日本現代文学選』に収められました。彼女の翻訳を読んで文学の道に進んだ作家もいるそうです。病でペッピーノを失った傷心の時期も続けており、『山の音』の翻訳許可を得るため、ノーベル文学賞受賞後の川端康成と会食もしている。翻訳は、徹底的に読むという体験です。日本語の先達からのコトバの継承も、後年、“新しい私小説の誕生”につながったのではないでしょうか」

若松英輔さん

 つい「多才」という言葉を冠したくなるが、本書の特徴は、冒頭近くの「彼女にとって『書く』という営みは最初から単に、創作や自己表現といったたぐいのものではなかった」という指摘に集約される。文章の背後にいつも、自分の居場所を見つけ、祈り、働き、神の愛を仲間と分かち合いたい、という熾烈ともいえる欲求があった。若松さんは、須賀が20代での最初の留学先フランスからの帰国後に、自分の名前で発表した初めての文章「シエナの聖女 聖カタリナ伝」という短い「伝記小説」に注目する。中世のイタリアの染物屋の娘として生まれ、幼い頃からキリストの幻影を見て、のちに時の教皇に、また同時に市井の人々にも、世俗のヒエラルキーに堕さない、己れの「霊魂の小部屋」で自己と神を探求することを呼びかけた人物だ。

「須賀さんが聖心女子大学に入ってすぐに知ったこの聖女は、生涯にわたっての同伴者となりました。留学先のパリでは冷たいアカデミズムに馴染めずひたすら神学を勉強した。彼女は20世紀宗教界で重要な役割を担った神学者トマス・マートンの最初期の邦訳者でもあります。文学者であり教師であり、なによりも信仰者であること、これは須賀さんと、敬愛した宮澤賢治の重要な共通点ですね」

わかまつえいすけ/1968年、新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年「越知保夫とその時代――求道の文学」で三田文学新人賞。18年『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞。著書に『不滅の哲学 池田晶子』など。

霧の彼方 須賀敦子

若松 英輔

集英社

2020年6月26日 発売

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