ここでは、ユダヤ教の律法学者とイエスが対話をしています。『新約聖書』には、律法学者はしばしばイエスの論敵として登場します。彼らは、イエスが新しい教えを広めようとしているようだが、どうも『旧約聖書』の律法(さまざまな掟)をないがしろにしているのではないかと疑っている。彼らにとって、イエスは怪しげな人物だったんですね。イエスは当時、罪人とみなされていた遊女や徴税人などと親しくしていて、それは神の教えに反すると考えていた律法学者たちは、事あるごとにイエスに論争を挑んでいたのです。
「隣人」とは誰か
このテクストにおいては、まずは、「律法」をめぐるイエスと律法学者とのやり取りが行われています。『旧約聖書』において神から与えられている様々な「律法」のうちで最も重要なものはなにかというイエスの問いに対して、律法学者は、「神を愛すること」「隣人を自分自身のように愛すること」という2つの律法を抜粋して答えます。そして、その答えをイエスは肯定します。両者の見解は一致しており、問題は実際にそのような愛を実践するか否かだけであるかのようにも思われます。
ところが、実は、イエスの考えと律法学者の考えは根本的に異なるものだということが、以下のやり取りで明らかになっていきます。
律法学者はイエスに「隣人」の定義を求めます。しかし、これは実は罠なのです。律法学者の「わたしの隣人とは誰ですか(10章29節)」という問いに対し、「神の教えをきちんと守っている、律法学者のような人です」と答えれば、イエスは言行不一致になる。なぜなら、イエスは遊女や徴税人(徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の手先となって、同胞のユダヤ人から税を集める、裏切り者と見なされていました)と一緒に食事などをしていたからです。
一緒に食事をするというのは、古代世界ではかなりの親しさの表現なのです。しかしイエスが「遊女や徴税人も隣人だ」と言えば、その言葉自体が律法の教えに背くものとみなされてしまう危険性がある。どのようにイエスが答えても責めることができる罠を仕掛けたのです。それに対して、イエスは直接的に隣人の定義を答えず、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった(10章30節)」と「善きサマリア人」のたとえ話を語り始めるわけです。