キリスト教になじみがなくとも、祈りや人と離れて自分と向き合うことが最も身近になったであろうコロナ禍。埋まらない社会の分断、無関心という病、かつてない気候変動の危機。コロナ禍で顕在化した危機に、どう立ち向かえばいいのでしょうか。
批評家・随筆家の若松英輔氏と、神学者で東京大学教授の山本芳久氏による神学対談『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』(文藝春秋)では、過去の危機に際して紡がれた神学、時に哲学の叡智をめぐって交わされた真摯な語りが書かれています。ここでは同書より一部抜粋して、危機に直面した時のキリスト教の教えを紹介します。(全2回の2回目/前編を読む)
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危機を予見していた教皇フランシスコ
山本 コロナの危機に直面して、そこで揺り動かされることによって新たなあり方が開かれていくと教皇は述べていたわけですが、いま振り返ってみると、教皇フランシスコはコロナが発生する前から危機の神学者と言うべき人物だったのではないかと思うんです。教皇就任直後のインタビューでも、2019年に来日したさいの東京ドームのミサなどでも、「教会は野戦病院であれ」ということを言っていた。それは大きな建物を敷地に構えて、「興味ある人はここへ来なさい」という教会のあり方ではなくて、いま苦しんでいる人々の真っただ中に出ていって、困っている人たちを直接癒すような役割を教会が果たしていくべきだという考えです。野戦病院としての教会、まさにこれは危機のただなかで活動する教会ということですよね。
若松 「教会は野戦病院であれ」という言葉とともに教皇フランシスコを象徴するのは「出向いていく」教会です。この言葉は『使徒的勧告福音の喜び』で語られました。
出向いて行きましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いて行きましょう。ここで、ブエノスアイレスの教会の司祭と信徒には何度も申し上げたことを、全教会のために繰り返します。わたしは、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。
この本との出会いは本当に衝撃的でした。確かに教皇がいうようにかつての教会は誤りを恐れるあまり行動することに臆病になっていたように見える。こうした言葉を発する教皇には、本当に困窮した人は、教会の門を叩くことすらできないという現実がはっきりと見えている。この言葉を読んだとき、私は比喩ではなく、教皇があの椅子から降りてきた、そう思いました。