ここで「流行性感染症の制御」という話が出てきます。『ラウダート・シ』が出た当時、私はこの箇所を読み飛ばしていたわけですが、今から振り返ってみると、やはり環境の危機がコロナの一因になっているわけで、それを予告するような、そういう危機に直面して発された、以後顕在化する危機をも予感しながら発された文書だったと思います。その意味でも、教皇フランシスコは「危機の神学者」と言うべき存在だとあらためて実感しています。
無関心のパンデミック
そして、『ラウダート・シ』の中でも、前章で紹介した『パンデミック後の選択』で出てくる「無関心のグローバリゼーション」という言葉がすでに現れています。
環境悪化によってますますひどくなる貧困から逃れようとしての移住者数は、痛ましいまでに増加しています。(中略)悲しいことに、いまも世界中至るところで生じているそうした苦しみへの無関心が広まっています。わたしたちの兄弟姉妹を巻き込むこうした悲劇に対する反応の鈍さは、あらゆる市民社会の基礎である同胞への責任感の喪失を示しています。(中略)米国の司教団が述べたように、「強力な利害関係に押されがちな議論においては、とくに、貧しい人、弱い人、傷つきやすい人の必要」にもっと関心を払うべきです。わたしたちは一つの家族であるという自覚を深める必要があります。自分には関係がないというための、政治的、社会的な、国境もなければ障壁もありません。ですから、無関心のグローバリゼーションが入り込む余地がないのはなおさらのことです。(同前、25、52)
教皇がコロナに直面した最初の時期に発したメッセージには、「無関心のパンデミック」というキーワードが含まれていました。このような言葉の選び方が、単なる思いつきや場当たり的なものではなくて、それまで教皇が発し続けてきたメッセージがコロナに直面して顕在化したものだということが、こういうコロナ以前に出た文書を見ることで分かると思うんです。「仲間である人間に対する優しさや共感や配慮が心に欠けているならば、人間以外の自然との親しい交わりの感覚は本物ではありえません」というような箇所からも、これが単なる環境問題の回勅ではなくて、環境問題という仕方で顕在化している、この世界全体の多面的な危機に直面して発された文書だということが分かりますよね。さらにそうした危機から脱するためにはどうしたらいいか、次のように教皇は語ります。