キリスト教になじみがなくとも、祈りや人と離れて自分と向き合うことが最も身近になったであろうコロナ禍。埋まらない社会の分断、無関心という病、かつてない気候変動の危機。コロナ禍で顕在化した危機に、どう立ち向かえばいいのでしょうか。

 批評家・随筆家の若松英輔氏と、神学者で東京大学教授の山本芳久氏による神学対談『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』(文藝春秋)では、過去の危機に際して紡がれた神学、時に哲学の叡智をめぐって交わされた真摯な語りが書かれています。ここでは同書より一部抜粋して、危機に直面した時のキリスト教の教えを紹介します。(全2回の1回目/後編を読む

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善きサマリア人のたとえ

山本 「危機」について考えを深めようとする際に、まず私の念頭に浮かび上がってくるのは、『新約聖書』の「ルカによる福音書」の第10章にある、「善きサマリア人のたとえ」です。まずは全文を引用してみましょう。

 すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、「先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか」。そこで、イエスは仰せになった、「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか」。すると、彼は答えた、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります」。イエスは仰せになった、「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう」。

 

 すると、彼は自分を正当化しようとして、イエスに「わたしの隣人とは誰ですか」と言った。イエスはこれに答えて仰せになった、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨2枚を取り出し、宿の主人に渡して言った、『この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に支払います』。さて、あなたは、この3人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか」。律法の専門家が、「憐れみを施した人です」と言うと、イエスは仰せになった、「では、行って、あなたも同じようにしなさい」。