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「弱さ」に直面するということ

若松 さて、「善きサマリア人」に出てくる道で倒れた人は身体的危機に直面した。それを見ていた祭司たちは身体的には無事でも霊的危機に直面している。すなわち神の前で応答を迫られている。この様相はそのまま、私たちの日常の問題となってよみがえってきます。

 サマリア人が助けた人は強盗に襲われ、突然、危機に見舞われた。それは急に弱者になるということでもあります。今回の新型コロナウイルス感染症の流行で、私たちもまた、ある意味とても「弱い」状態に追いやられた。自分たちの力で、世界を作り変えてきたつもりが、未知なるウイルスによって大混乱に陥った。人間の無力さと「弱さ」をあらためて経験したわけです。このさまざまな意味における「弱さ」も、今日再考すべき神学的主題だと思うのです。

「弱さの神学」を考えるとき、見過ごせないのはパウロです。彼は、「コリントの人々への第二の手紙」で「自分自身については、弱さ以外のことを誇りはしません(12章5節)」という印象的な言葉を残しています。「弱さ」とは避けるべきものではなく、真に誇るべきものだというのです。なぜ、このような世の常識を逸脱した発言がなされるのか、ここに神学的地平があるはずです。

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 回心以前のパウロは『旧約聖書』の律法を誰よりも熱心に守って生きてきた人物でした。新しい教えであるキリスト教を認めず、その信徒たちを迫害さえした。しかし、あるとき避けがたい啓示を受け、キリスト教徒になるばかりか使徒にもなることになります。

 キリスト者になる前の彼は、強さにおいて人々を従え、導いていく立場にあり、それがよいことだと信じていました。しかし、かつては長所だった人間的な意味での強さが、回心後の彼にとっては大きなつまずきになっていきます。強さを誇る人はなかなか内に眠る愛を開花させることができない。パウロは、自らの「弱さ」を発見しながら、自らと神、そして神を媒介にした自己と隣人との間に不可分なつながりを見出していくことになります。

 同じ手紙でパウロは「わたしは自分の弱さを誇ることにします。(中略)わたしは、弱っている時こそ、強いからです(12章9~10節)」とも述べています。こうした言葉を発するパウロには、「弱さ」を真に認識するとき、人はそこに神の臨在を共に経験するという確信がある。それは同時に深い意味での「隣人」の経験でもある。「神」と「愛」と「隣人」は、同じ問いのなかにある三つの局面だといえるかもしれません。コロナ禍にある私たちもまた、「弱さ」の経験、あるいは「弱さの神学」を顧みることなく、何かに追い立てられるようにかつての日常を取り戻そうとすると、かえって形を変えた危機を招き寄せることになるのではないかとすら思います。

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