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コロナ前に「教会は野戦病院であれ」「汚れた教会のほうが好きです」と…危機を予見していた教皇フランシスコが考える、教会のあり方

『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』より#2

source : 文春新書

genre : ライフ, 読書, 社会, 国際, ライフスタイル

note

 あらゆるものはつながっています。環境への配慮はこうして、仲間である人間への真摯な愛、そして社会問題の解決のための揺るぎない献身と結ばれる必要があります。(同前、91)

 あるいは、

 わたしたちは、いつも、自分自身から出て他者へと向かうことができる存在です。そうしなければ、それぞれの価値をもつ他の被造物を認めることはできず、他者のためになるさまざまなことへの配慮には無関心となり、他者の苦しみやわたしたちの環境の悪化を防ぐための自制をし損ねてしまいます。閉塞性と自己中心性を打ち破る、自己を超え出るという基本的姿勢が、他者と環境に対するどのような配慮をも可能たらしめる土台です。(同前、208)

危機に揺り動かされて初めて無関心から救われる

 コロナ危機後に教皇は折に触れて、これは自己中心的なあり方、自分に閉じこもっているあり方から抜け出る決定的な機会なんだと述べています。自分の力だけでは自己閉塞的なあり方から出ていくことができない。それには、揺り動かされることが必要だというわけですね。危機に揺り動かされて初めて、無関心から救われ得るというわけです。

 無関心というのは、他の人への配慮が足りないだけではなく、自分自身がいわば世界を喪失している状態です。実に多様な喜びにも苦しみにも満ちたこの世界の豊かなあり方に対して心が閉ざされてしまっていること。それは、無関心なあり方をしている人自身にとっての危機でもあるわけで、それを克服するための、揺り動かされるという決定的な画期に私たちは直面しているのだと、教皇はコロナに直面して繰り返し説いているんですね。

コロナ前に「教会は野戦病院であれ」「汚れた教会のほうが好きです」と…危機を予見していた教皇フランシスコが考える、教会のあり方

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