BSJに主体性は無い
たとえば、詐欺師だったら、みずからだますことを決意し、だます方法を決め、その展開をも、仕事の進行しだいで、みずからコントロールするでしょう。ある意味で自営業なわけで、だますのもみずからの才覚です。だから、詐欺師の映画はたくさんありますよね。たいがいヒーロー/ヒロインです。そこではだますことに主体性があります。そしてその主体性は、工夫や才能、そしてモラルというかたちで発揮されます。かれらが映画でおおよそ英雄であるのは、こうした主体的要素を発揮して、悪い奴をとっちめたり、あくどく搾取された富を奪取したりするからです。そこには義賊的要素もあります。
ところが、BSJにはそんなものはありません。ただただ人は、その演技を雇用の一環として強いられるのです。だから、「たとえそうであっても、当人は、そうではないととりつくろわなければならないように感じている(even though the employee feels obliged to pretend that this is not the case)」というさっきの定義は、obliged to pretend、つまりそう強いられているといった受動的感覚をふくんでいますし、積極的にだますというよりは「とりつくろう」という、これも場当たり的なものなのです。この点はまた、のちにでてくる精神的暴力というテーマともかかわってきます。
こうした検討から、グレーバーは最終的な作業定義を設定します。「作業定義(working definition)」というのですから、「最終的」とはいえ、それは『ブルシット・ジョブ』においてであって、いまだ再検討や発展の余地はあるものです。