「時間指向」の仕事は人間にムリを強いる
監視も管理もきつくないですし、画一化された生産方法が上から指定されていることもない。だから、働く人たちは、政治的にはどれほど従属していても、働く現場においては、みずからの才覚と裁量を発揮できる余地が多かれ少なかれあったのです。
だから、日本でもヨーロッパでも、中世末期には、農民の余暇時間が大幅に拡張していたのですし、産業資本主義への移行期にあたる19世紀には、2つの慣習──タスク指向と時間指向──が激しい衝突をみせたのです。ヨーロッパには19世紀前半には労働者のあいだに「聖月曜日」という習慣もありました(*2)。
*2 これについては、喜安朗『パリの聖月曜日』(岩波現代文庫、2008年)が参考になります
労働者は仕事の終わった土曜から飲みはじめ、月曜も飲みつづけ、勝手に仕事を休んでしまうのです。そればかりか、19世紀後半になってもアメリカにおいてすら、労働者はじぶんの休みたいときに休んで、じぶんの帰りたいときに帰るといった経営者の嘆きがたくさん残されています(*3)。少し前にふれましたが、労働組合運動も、20世紀はじめまではこうした感覚の延長で、自由時間の増大をめざしていました。賃労働のくびきから解放されて、じぶんのイニシアチヴのとれる時間を求めていたのです。
*3 文化史家のトム・ルッツは、1877年の『ニューヨーク・ヘラルド』紙に掲載された葉巻製造業者の嘆きをあげながら、この時代のアメリカの労働者の姿を浮き彫りにしています。「彼らはいつも『朝、作業場に降りて来ては、二、三本の葉巻をつくり、それから、酒場に行って、トランプやほかのゲームに興ずるのだ』。労働者たちはいつも、気が向く戻ってきて、さらに数本の葉巻をつくり、それからまた酒場に行って、結局『一日におそらく二、三時間しか働いていない』(中略)実際、ミルウォーキー州の葉巻職人たちは、一八八二年にストライキに入ったが、その目的は、いつでも工場長の許可なく工場を離れる権利を保持することだけだった。ここからわかるように、葉巻職人たちはいかにもアメリカらしい製造業労働者だった。彼らはフランクリンが推奨し、また産業経済が支援しつつ押しつけようとする、規律正しい労働習慣なるものを拒否した。19世紀をとおして、産業家たちは労働者の怠惰と反抗とみなせるものを声高に訴えた」(小澤英実、篠儀直子訳『働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち』青土社、2006年、168ページ)。
たとえば、わたしたちのまわりでもよく耳にしないでしょうか。サラリーマンをやめてラーメン屋をやりたいとか、喫茶店をやりたいとか。まわりはもちろん、止めます。そんなにかんたんなものではない、いまより働く時間も長くなるし、不安定になるし、収入も減る、と。ラーメン屋をやりたいと口にする人の本気度もさまざまでしょうが、そういいたくなる気持ちは多くの人々がもっています。他人にいわれるまでもなく、そのようなリスクもデメリットも、たいていの人はわかっています。
しかし、それでも自営でいたいという気持ちのうちには、労働過程のイニシアチヴはじぶんが握りたいという願望がひそんでいるのです。つまり「タスク指向」を「時間指向」が制圧するさいの歴史的な葛藤は、ここにもつらぬかれているわけです。少なくとも時間指向の仕事のあり方がどこか人間にムリを生じさせるものだということです(*4)。
*4 しかし、またこうした心性に、ネオリベラリズムがつけこみ、雇用の不安定化を促進していきます。労働者を個人事業主にして、必要なとき使って、不要なとき使わないことができるわけです。こうした現代は、油断できない罠があちこちにひそんでいるのですね
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