手のひらを返した石原都知事
「次の高裁では損害賠償が認められましたが、判決文のなかに『東京都は親を探すための協力をしなさい』といった類の文面はひとつもありませんでした。
何よりショックだったのは、高裁判決後の都知事定例記者会見で石原さんは、『賠償金の支払い以外にできることはない』と、まるで手のひらを反すように逆のことを発言なさった。正直、やられたなと思いました。愕然としました」
東京都立の産院のミスで取り違えが起きたことと、賠償金の支払いは認められたものの、真実の親に辿り着くための手段がない事態に進展はなかった。
自分でもできる限りの親探しは、裁判中から続けていた。
「当時は閲覧できた墨田区の住民基本台帳から、僕の誕生日前後10日間に生まれた住民をリストアップして、週末に一軒一軒訪ねて歩きました。新聞記事を見せながら自己紹介をし、『墨田産院で生まれたO型かB型の方はいませんか』と70、80人の方に訊くわけです。転出・転入されてる方も多くて、条件に合うひとは見つからなかった」
沐浴をきっかけに「取り違え」が多発した
「でも驚いたこともありました。お袋と同年代の方が玄関先に出てみえて、『私も墨田産院で生んだんだけれど、取り違えられたの』と言うんです。僕と同じ年齢の男性の妹さんを、昭和36年に墨田産院で産んだときのことです。看護師さんが赤ちゃんを沐浴に連れていき、『ハイ、戻りましたよ』と連れ帰ってきたのが男の子だった。その方は、びっくりして『私が産んだのは男の子じゃないわよ』と言ったら『あららら』なんて調子で女の子を持ってきたそうです。僕が生まれた3年後でも、まだそんな感じで間違いがあったということ」
昭和30年代半ばの墨田産院では、1日平均3、4人の赤ちゃんが生まれていた。同室の複数の新生児たちを沐浴に連れていくために使われていたのは、手押しのカート。その頃から全国の病院で風呂に入れる係と運搬係が分業制度となり、沐浴をきっかけに「取り違え」が多発したとみられている。