「絶対にソ連に勝って世界一になろう」
60年にブラジルで開催された第3回世界選手権の代表は、日紡の選手を中心に選出された。監督は当然のごとく大松である。
初出場にもかかわらず、日本は銀メダルを獲得した。優勝は、第1回大会から世界選手権を連覇しているソ連。国内の大会ではことごとく勝っていた日紡貝塚に、初の国際大会とはいえ土がついたことに、大松、選手らは血が逆流するほどの悔しさを味わった。この大会を最後に引退を決めていた河西、宮本は、結婚願望を「打倒ソ連」に変える。
大松は選手の前で決死の宣言をした。
これがチームの合言葉になった日紡貝塚は、以前にも増して練習に取り組む。
しかし、アマチュアである以上、仕事が免除されるわけではない。明け方まで体育館に籠(こも)ることもあったと宮本が言う。
「体育館を出て寮に帰ると、早番の人が出勤する時刻。『お帰りなさい』『いってらっしゃい』。こんな挨拶を日常的に繰り返していた」
大松は、これまでと同じような練習をいくら重ねても、体格に勝るソ連を打ち破ることは出来ないと考えた。世界選手権で対峙した海外勢はどこの国も巨人と思えるほど身体に恵まれ、大人と子供ほどの差があることを見せ付けられた。加えて、小柄な日本人は手足が短いため、外国人選手に比べ身長以上のハンディを背負っている。
そんな弱点を補うためには、外国人選手の占める空間と同等の動きをする戦略が必要だった。
当時、大松はこう語っている。
「バレーは三次元スポーツ。1人ひとりが動ける立体的な空間を、背の高い海外の選手より多く占めることが出来なければ、そもそも勝負にならない」
そのためにはどうすればいいか。そのことだけに頭が占領されていたある日、大松は、ダルマが棚から転げ落ちても立っているのを目撃した。
これだ、と閃いた。
跳んだ瞬間にボールを受け、上げると同時にクルリと一回転して起き上がれば、より早く元の姿勢に戻れると考えたのだ。そうすれば、身体のハンディから来る空間の隙間も埋まる。
これが後に、東洋の魔女の代名詞にもなった“回転レシーブ”である。
だが練習は悲惨を極めた。身体のあちこちを床にぶつけるため、座布団やタオルを巻いて練習しても生傷が絶えない。打ち身、擦り傷、打撲、捻挫は当たり前。動きが止まれば大松から容赦なくボールが飛び、失敗すれば罵声が浴びせられた。
傷口は破れ、膿をはらんだ。それでも選手たちは練習をやめようとしない。大松の罵声はますます激しくなる。レシーブ練習は1人が1日3百本。全員がマスターするまで2年間以上続いた。
しごきにも似た大松の特訓に、会社内部や世間から批判も噴出する。特に労働組合や戦後急速に広がったフェミニズムの活動家たちから、大松は糾弾された。
「大松は女性の敵」
「非道は許せない」
「人権蹂躙もはなはだしい」
一方、肝心の選手たちは大松に向けられる批判が解せなかった。
いち早く回転レシーブを習得した松村が言う。
「うまくなりたいと思っているのは私たちで、先生は指導をしてくれていただけ。もし、先生が、黒板に絵を書いて練習方法を説明するような人だったら、私たちもやらなかった。回転レシーブも実際にやって見せてくれましたから」
河西は、大松の腕が左右大きく違っていたと証言する。
「先生は私たちの12倍身体を動かしていたんです。1人で、サブメンバーを含めた12人にスパイクを打っていましたから、腕の太さが違ってしまったんでしょうね。身体を1番酷使していたのは私たちではなく、先生なんです」
レシーブ練習が1日1人300本とすると大松は1日に3006百本のスパイクを打っていたことになる。それが何年も続いたとなれば、腕の太さが大きく違って当然だった。
引退後、ママさんバレーの指導者になった半田は、教える立場になって初めて大松がいかに自分の身体を酷使していたか、よく分かったという。
「先生はよく『お前たちはいいよな、休む時間があって』と言っているのを聞き『何を言っているの、こんだけしんどいのに』と思っていたけど、指導者になって先生の言っていた意味がようやく理解できた。ママさんバレーでさえそうなんだから、世界一を目指していた私たちを指導するのは、男性であってもいかにきつかったか……」
この頃には、ドライブサーブで変化をつける日本オリジナルの必殺技「木の葉落とし」も完成させた。