「そんな甘い気持ちでやるならバレーなんて止めちまえ!」
大松は厳しいだけではなく、月に1度、補欠を含めた選手12人を連れて大阪の繁華街に繰り出し、映画を見てはその後にフルーツポンチやチョコレートパフェをご馳走した。それが選手たちの最大の楽しみだった。嬉しそうにパフェを頰張る選手らを眺め、大松は相好(そうごう)を崩す。そのときの父親のような穏やかな顔が忘れられないと谷田が言う。
谷田は、月一度の映画のリクエスト係だった。
「話題の映画を見つけ、先生にリクエストするんです。でも、映画館に入った途端、みな熟睡。その後にレストランに行くのが何よりの楽しみでした。でも今考えれば、先生は社員ですから給料が決まっている。その中でよく選手全員の映画館代、パフェ代を捻出していたなと思いますね。1日で給料の半分は飛んでいたんじゃないかな」
選手たちの大松に対する信頼を知った会社や世間は、振り上げていたこぶしを引っ込め、同時に大松礼賛の風潮に変わった。
大松は、チームの温度の変化に敏感だった。空気が緩んできたと感じると、ぷいと練習をやめることがしばしばあった。そんなときは河西の出番である。
仕事場に戻った大松に河西が練習を再開してほしいと願いに行く。当初、大松はむっつりしているものの、度重なる河西の懇願に大声を張り上げる。
「俺はこんなに一生懸命やっているのに、お前らは何だ。そんな甘い気持ちでやるならバレーなんて止めちまえ!」
すかさず河西が反論する。
「みんなは懸命にやっています。自分だけ帰るなんて卑怯です!」
そんな2人のやり取りを、他の選手らは窓の外から見ているのだ。宮本が含み笑いをする。
「2人の頃合いを見つつ、私たちが登場。先生に泣きながら『お願いします。練習をやってください』と懇願。別に泣きたくはないんだけど演技です。そうすると、『そこまで言うんだったら、やるか』となる。窓の外から、先生を怒鳴っている河西さんを見ている私たちは『どっちが指導者か分かんないね』とささやきあっていたものです」
河西がしみじみ言う。
「何度もいいますけど、世間ではスパルタとかしごきと言われ、私たちは大松先生の従順なる子羊のようにとらえられていましたけど、実際は私たちがやりたいからやっていたんです。みんなに共通の揺るぎ無い目標がありましたからね、世界一という」
当時はまだ高校生だった磯辺は、彼女たちを外から眩しく見ていた。
「6人姉妹が何か目的を1つにし、それに向かって頑張っていくという姿が羨ましく、私も早く、姉妹の絆の中に入りたいと憧れていました」
話は逸れるが、72年ミュンヘン五輪の男子バレーで金を獲得する選手たちが初招集されたとき、監督の松平康隆の依頼によって、当時東大の助手で運動生理学の研究をしていた豊田博(元日本バレーボール協会専務理事)が、練習メニューを作る前に、男子選手の全身反応時間を調べたことがあった。すると、東洋の魔女より男子選手の方がことごとく数値が低かったという。
根性バレーといわれていた大松の指導がいかに合理的な練習法だったか、数字が示していることに豊田は舌を巻いた。
「大松さんはもちろん自分でも勉強したのでしょうけど、多分、インパール作戦から生き延びた体験から、人間の潜在能力にいち早く気がつき、合理的に選手の能力を引き出す方法を知っていたのだと思います」
大松の根性バレーは、科学的にも証明されていたのだ。