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父でも、行きずりの人であっても、等しく祈る
以下同書より、手紙の一部をそのまま引用する。
「……(中略)……僕は、霊安室からいったん黙って立ち去ろうとしました。幼少期から僕と母への、さらには兄への怪物めいた数々の行為を思えば、遺体を見るだけでも、見てやっただけでもどれほどのことだろうか、と思っていたのですから。
しかし、階段を5段降りたところで僕は立ち止まり、再び戻って扉を開けました。そして父の遺体の枕元に置かれた線香立てに、マッチで火をつけた線香を3本だけ立てました。
その煙を吸い込みながら、思わずクリスチャンの僕は、手のひらをあわせた。『どうか天国に行かせてあげてください』とお祈りをしました。
それは、あの父のためだったのでしょうか。
ゆきずりの人であっても、見知らぬ人であったとしても、死にゆく人であれば僕は等しくそう祈るだろう、そんな祈りの言葉だったように思えるのです」
彼は、父とは財産目当てだけで離婚しなかった母とも相談せず、次男の彼が父の遺骨を引き取り、一人で業者に頼み湘南の海で散骨したという。
母に相談しても自分に押し付けられるだけだとわかっていた。長男である兄は霊安室を訪れることもしなかったという。
これを読んで、しばらく言葉がでなかった。何かここにすべてが集約されているような気がした。
「和解」とか「許す」とか、そうした言葉がいかに薄っぺらな偽善に包まれて、押し付けがましいものかと……。
きっと、確執に苦しんだ親を見送った人の中には、長年苦しみもがきながら、彼と同じような境地に至った人がいることだろう。