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葬式や法要が「とりあえず」化しないためには
「葬送の簡素化」「死者の尊厳の軽視」を嘆く意見を聞くたびに、その背景にある家族間の確執を心の中で想像した。たしかに「亡き人を弔う」という気持ちが、心の中心にあれば、前述のようなことは起きていないだろう。
親自身に欠けているものを、子どもに伝えていくことは難しい。反面教師となれればいいが、こうした心の奥にあるものは反発されずに引き継がれてしまう怖さを感じている。
人との出会いで、信頼できる人は、なぜか皆「生と死」を大切に考えている人たちだった。
宗教も関係なく、儀式を重んじるかも人それぞれ。
そうした表立ったことではなく、家族の死であるとか、親しい人の死であるとかにかかわらず、「人の命」を大切に考える人には安心できる深い人間性を感じた。
研究者でも葬送事業者でもない私が、「葬送文化」の世界に足を踏み入れたのは、「弔うこと」の意味を知りたかったからだ。「弔う」ことを考えるのは人間の根源的な問いでもある。
儀式としてのお葬式や法要をしても、かたちだけの虚礼になってしまうことがある。「とりあえずした」というような、虚しいものにしてしまっているのは、実は「家族」なのではないだろうか?
この家族には遺族も故人も含まれる。
よく「葬式を出すのは遺族の責任だ」という意見を聞く。たしかに亡くなった故人は、自分で棺に入ることも、墓に入ることもできない。だが「生きざまは死にざま」という言葉の通り、「弔い」は故人が遺していった家族の関係の表出なのだと思うことが多い。