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故人の冥福を祈るのは難しいことか?
故人は遺産だけではなく、人との関わりもそのまま遺して逝く。
型どおりの「葬儀」を営む控室で繰り広げられる「家庭争議」。なにもこの場でしなくてもと思うのだが。一応家族を揃えても、一言も口をきかない私の父のときのような沈黙の一周忌など、する意味を感じない法要もある。
年回忌法要を済ませたという人の中には、お寺や霊園にお布施を郵送して、供え花と読経をお願いしたことを意味する場合も少なくない。
遠方まで墓参りに行くのが大変だからという理由だけでもなさそうだ。そういう人たちはとくに家でも供養らしいことをしていないようだった。
家族葬の時代になって、法要はさらに小規模になり、形骸化していくのだろうか?
「弔う心」を持たない人が、先祖の祟りだけを怖れる不思議。似たようなことが弔いの場で、もっと多く行われているのかもしれない。
なぜ、人はその時だけでも気持ちに折り合いをつけて、亡き人を弔うことだけに、気持ちを向けられないのだろうか?
亡き人を美化する必要もないが、せめてその故人との関係を見つめ直す時間にしたいと思う。家族が心をともにして、故人の冥福を祈ることは、そんなにも難しいことなのだろうか?
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