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約10日後に宮崎監督から返事が

――そして、意を決し手紙を送った。時期としてはいつ頃でしょう?

木村 1998年の夏ですね。宮崎さんの作品が大好きで拝見していたこと、生意気ですけど『天空の城ラピュタ』(1986年)の音楽に対する考察を私なりに書いて。あの頃も宮崎さんは引退するなんて仰っていたから「引退すると仰っていましたけれども、もし万が一新しい作品を作られることがあった場合には、私の歌で花を添えられたらうれしいです」としたためて、私が「もののけ姫」を弾き語りしたもの、金子みすゞさんの詩に曲を付けたもの、その他自作曲の音源を添えて送ったんです。

 何かしらお返事はきっとくださるんじゃないかという気はしていたんですけれども、まずは手紙を書いて送ることができて安堵しましたね。そして、10日後くらいかな。98年の9月に、お返事が届いたんです。

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長年のジブリファンだという木村さん。ご自宅にはサントラCDやVHSまで

――宮崎監督の返事には、準備を進めていた次回作の音楽を手伝ってもらえたら、というようなことが書かれていたそうですね。

木村 お送りした曲の感想に加えて、『煙突描きのリン』という作品のプロットや、その企画が形になったならば、という意味で「もし、そんな時が来たらあなた様にご連絡するかもしれません。期待されてはいけません。ああ、そんなこともあったっけ…程度にお受けとり下さい」と書いてありました。私としては、手紙を読んでもらったうえに私のCDとテープを聴いていただけただけで「ああ、よかった」という感じで。

“幻のジブリ作品”のプロットと、最初の歌詞が浮かんだ瞬間

――結果的には幻の作品となった『煙突描きのリン』のプロット、非常に気になります。

木村 当時は1995年の阪神・淡路大震災から間もない時期でした。『煙突描きのリン』では、2回目の大震災に見舞われた東京へ、大阪から画学生の少女が上京してくるんです。地震にも再開発にも揺らがなかった、古い家並みの残る町にお婆さんが営んでいる銭湯があって、その少女は煙突に絵を描くのと引き換えに銭湯裏の部屋にタダで住ませてもらう。煙突の上で彼女が歌を口ずさむことで、いろいろな物語が動いていく……という感じの内容だったと思います。

 ただ、細かいところまでは決まっていなかったのではないでしょうか。「作品が形になるかどうかも見当がついていません。挫折する企画の方が多いので」とも書かれていましたしね。

 

――宮崎監督からの返事を読んで、すぐに『煙突描きのリン』に向けての作曲に取り掛かったんでしょうか?

木村 とにかくまずはホッとして、すぐに『煙突描きのリン』に合う曲を作ろうという気持ちは起こりませんでした。でもお返事をいただいてから1カ月半くらい経った頃、練習中にライアーを弾く手を休めたら、口ずさみたくなるメロディーがふと浮かんできたんですね。それが何度も起こるので、メロディーを書き留めておきました。何日か後に、「これ何の曲だっけ」とメモを見ていたら、「『煙突描きのリン』に合うんじゃないかな」と。そして「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心踊る 夢を見たい」という最初の歌詞が浮かんだんです。

 でも、私には詞を書く才能がなくて、それから3週間ほど考えても、そこから先の言葉が続かなかった。そこで、詩人で作詞家の覚和歌子(かく・わかこ)さんに相談することにしたんです。私は長年体調不良だったことがきっかけで、気流法(日本古来の武道や伝統芸能などの身ごなしのエッセンスを取り入れた、ボディメソッド)という身体技法を習っていたのですが、覚さんはその稽古会の仲間でもあったんですね。