早稲田駅近くのモスバーガーで曲と詞が動き出した
――具体的な宮崎監督からのオファーはなかったものの、何かに突き動かされて曲と詞が動き出したと。
木村 「もし、そんな時が来たらあなた様にご連絡するかもしれません」と手紙に書いてくださっていましたよね。だから、その「もし」がある場合に「こういう曲もありますよ」って言えたらいいな、みたいな。そんなノリではありました。
覚さんには「ごめんね。どうなるかわからないし、報酬を支払える仕事でもないけど、3カ月ぐらいかけて詞を考えてもらえない?」とお願いしたんです。1998年の冬、早稲田駅近くのモスバーガーで(笑)。覚さんにしてみれば失礼な話だったでしょうが、「わかった」と快く受けてくださった。覚さんは『もののけ姫』を観ていなかったんですけど、翌月くらいにちょうどテレビで放送されて、「タイミングいいね!」なんて言い合ったのを覚えています。
――もともと、木村さんはすべての歌詞を覚さんにお任せされるつもりだったのですか。
木村 実は最初の言葉である「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心踊る 夢を見たい」は、できるだけ使ってほしいと思っていました。宮崎さんからのお返事に「状況は深刻でも、それを上まわる生命のかがやきを持つ主人公を誕生させられたらと願っています」と書かれていたこともあって、この歌詞が浮かんだんですね。それを覚さんにも説明して、「そういう感じで考えてくれない?」とお願いしました。
第2バージョンの「いつもここに(仮題)」
――覚さんは沢田研二さんや稲垣吾郎さんなどの楽曲の作詞も手掛けておられます。そんな覚さんでも、木村さんの歌詞の後に続く言葉を生みだすというのは難しい仕事だったのではないでしょうか。
木村 結局、2バージョン作ることになりまして。「弓さんの言葉を残すのであればこちらで。でも、私としてはこちらのほうが」と提案してくれました。第2案となったのは「いつもここに(仮題)」。冒頭の歌詞が「ときめきの色は どんな色だろう 心の大地に 鮮やかな夢」というバージョンです。現在、皆さんに聴いていただいている「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも心踊る 夢を見たい」バージョンは第1案のものだったのです。
「心踊る」ではなく「ときめく」だと、私にとっては全然違う世界になってしまうんですね。それと、覚さんは「果てしなく 道は続いて見えるけれど」の部分を「あまりにも 果てなく道は続くけれど」と書かれた。そのままでは苦しくなって歌えないから、「『見える』にしてもらえない?」と言ったら「じゃあ、『かみさまの顔は 今もわからないけれど』にしようか」とサッと他の言葉を提案してくれたりして。まあ、仕事じゃないというか、締め切りもないので、お互いに気楽で楽しくできたし、それが大きかったなとは思います。
また次に続く言葉として覚さんが書いてくださっていたのは「光抱ける この両手がある」で、メロディーにはぴったり合っていたんですが、これだと、もし何かの理由で手がない人にとっては励ましにならないからと伝えて、「この両手は 光を抱ける」に変えてもらいました。以前、糖尿病で足が壊疽になり切断を余儀なくされて、次は腕も切断しなければならなくなるかもと言われていた友人をどうしたら励ますことができるかと悩んだ時期があったので、私には切実に感じられることでした。