平安時代から戦国期にかけての日本では、各地で「耳鼻削ぎ」が広く一般的に行われており、その様子は当時の書物にも度々書き記されている。はたして、なぜそのような“残酷”と思われる刑罰が日常的に行われていたのだろうか。

 ここでは、日本中世史、社会史などを専門とする明治大学教授、清水克行氏の著書『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー)の一部を抜粋。刑罰としての耳鼻削ぎの「役割」について俯瞰する。(全2回の1回目/後編を読む)

©iStock.com

◆◆◆

ADVERTISEMENT

義経、大暴れ 

 源平の合戦で大活躍した源義経(1159~89)については、その悲劇的な死もあって、死後に「判官(ほうがん)びいき」の風潮のなかで国民的ヒーローとして、史実を離れてキャラクターが独り歩きをはじめる。とりわけ、その後の義経のヒーロー化に大きな役割を果たしたのが、室町時代に創作された物語『義経記』である。『義経記』のなかで、義経は“悲劇の人”というよりは、むやみやたらに強いスーパーマンとして描かれている。その義経の活躍を描く場面のなかで、耳鼻削ぎの話題が登場する(巻六「判官南都へ忍び御出ある事」)。 

 所は奈良。頼朝の追っ手を逃れ、義経は勧修坊(かんしゅうぼう)という僧のもとへ身を寄せていた。そこに「奈良法師」(興福寺僧)の但馬阿闍梨(たじまあじゃり)という悪僧が、仲間5人と襲撃を企てる。彼らは夜道で人を襲っては太刀を巻き上げる乱暴者集団だったが、ついに義経の太刀に目をつけ、身の程知らずにも義経に因縁をふっかけようとしたのだった。6人は最初それぞれ築地塀の陰のほの暗いところに隠れていたが、但馬阿闍梨が義経を見つけ、太刀の鞘に鎧の草摺(くさずり)(大腿部を守る付属品)を打ちつけて、「ここにいる男を討て!」と叫ぶと、それを合図にそれぞれが走り出てくる。このとき、走り出してきた仲間たちのまえで、リーダー格の但馬阿闍梨はこう言った。 

「如何なる痴者(しれもの)ぞ。仏法興隆のところに度々慮外(りょがい)して罪作るこそ心得ね。命な殺しそ。侍ならば髻(もとどり)を切って寺中を追へ。凡下(ぼんげ)ならば耳鼻を削りて追出せ」 

 これを現代語訳すれば、以下のようになる。  

「なんというバカものだ! おまえら、この仏法興隆の地でまた思いちがいをして罪を犯すなよ。命は奪うな。侍ならば髻を切って寺のなかから追い出せ! 一般人ならば耳鼻を削いで追い出せ!」