中世の「野蛮な」風習と考えられがちな耳鼻削ぎだが、実は江戸時代に入っても会津藩では引き続き刑罰として実行されていた。なぜ、権力者は人々に耳鼻削ぎを迫ったのか。そして、なぜ会津藩での耳鼻削ぎは17世紀末まで残ったのか……。

 ここでは、日本中世史・社会史の専門家である清水克行氏の著書『耳鼻削ぎの日本史』(文春学藝ライブラリー)の一部を抜粋。史料を元に謎に包まれた“耳鼻削ぎ”の実態を解き明かす。(全2回の2回目/前編を読む)

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統一政権は強大なのか? 

 かつての法制史研究では、近世初期の権力が残虐かつ非理性的な刑罰や裁定を多用する理由を、統一権力の強大さから説明してきた。つまり、熾烈な戦国争乱を勝ち抜いた政治権力は、民衆支配に対しても強腰の姿勢で臨むことができた、というわけである。しかし、むしろ私は、この時期に多用される喧嘩両成敗法についても、鉄火起請(てっかぎしょう[焼けた鉄を握り火傷の状況で正邪を決める裁判])についても、決して権力の強さの現れではなく、むしろ逆にその権力体の脆弱さを表したものだと考えている。その理由の一つには、それらが決して為政者のオリジナルの発案ではなく、前代からの伝統ある紛争解決法や刑罰だった点にある。彼らはなによりも、多くの人々の合意をより得やすい措置であることを重視して、一般に普及していた荒っぽい紛争解決法や刑罰を積極的に取り込んでいたのである。 

 また、もう一つとして、そうした恐怖心に訴える手法を使わなければ統治できないということは、それだけその権力体の基盤が弱いということでもある。当時の政治権力の側も、本来ならば正邪を理性的に弁別して、適正な措置を講ずるほうが望ましい、とは考えていた。しかし、確立して間もない政治権力の裁定や措置が多くの人々の支持を得るにはまだまだ状況は厳しく、さらなる統治に対する信頼と実績を積み重ねるための時間が必要とされていた。耳鼻削ぎ刑についても、けっきょく不安定な権力基盤を維持するうえで、当座は重宝なものと判断されたがゆえに活用されていたにすぎない。当然、政権の成熟とともに、その「見せしめ」刑としての露骨すぎる性格は、しだいに時代に合わないものになってゆく。 

「名君」と耳鼻削ぎ 

 同時代に池田光政に匹敵する名君として知られているのが、会津藩の保科正之(ほしなまさゆき[1611~72])である。藩政の立て直し、神道や儒教への傾倒など、二人には共通点が多い(池田光政[いけだみつまさ]と保科正之に徳川光圀を加えて、俗に江戸初期の「三名君」などともよばれる)。が、一方で保科も、池田と同様、耳鼻削ぎには独特の一家言をもっていた。 

 会津藩も他藩と同様、耳鼻削ぎを刑罰として採用していたが、それはかなりの部分、藩主・保科正之の主導によるものだった。その実態は、会津藩の正史『会津藩家世実紀』(吉川弘文館)にくわしい。