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「男は男根を切り落とし、女は鼻を削ぐ…」 “カリスマ藩主”保科正之が残虐な“肉刑”を刑罰に取り入れた“本当の理由”

『耳鼻削ぎの日本史』より #2

2022/01/18

source : 文春文庫

genre : ライフ, 歴史, 社会, 読書

note

時代に取り残される…… 

 ところが、皮肉なことに、カリスマ藩主・保科正之の伝統に縛られていた会津藩では、その廃止の決断にいたるまでに喜劇的とさえいえる紆余曲折があった。 

 綱吉治世初期の天和(てんな)3年(1683)3月、5年前に会津藩で耳削ぎのうえ追放刑に処された作平という男が、ふらりと領内に戻ってきた。この頃には耳鼻削ぎのうえ追放という措置も会津藩では復活していたようだ。しかし一度追放とされた者が舞い戻ってきたら、次は死罪はまぬかれない。しかし、作平は5年のあいだ、東北・関東を巡歴したものの、耳のない前科者の彼を雇ってくれる者はどこにもいなかった。衣食に窮した作平はついに死罪を覚悟で、ふたたび故郷に足を踏み入れたのである。 

 作平に同情の余地はある。しかし、法度に背いた者を許容した結果、法度を舐めて、似たようなことをする奴が続出するとまずい。いや、誅伐(ちょうばつ)覚悟で舞い戻ってきた者を死罪にするというのはいかがなものか――と、会津藩内でも作平の処遇をめぐっては意見が割れた。 

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 そのなかで、藩の重役たちの耳に驚くべき情報がもたらされた。 

 惣じて耳鼻鍛きの刑、他邦にこれ無し。この刑にあひ候者は「会津者」と唱へ、この節いづかたも改めつよく、なおもってその類、召仕ひ候者もこれなし。渡世も相成らざる趣、余義なきに候……。 

 なんと、当今、耳鼻削ぎ刑はわが藩のほか、よその藩ではもうやっていないというのだ。おかげで、耳鼻を削がれた者は他国の者から「会津もの」などとよばれる始末。最近はどこも取り締まりが厳しいので、そんな奴を雇おうなどという者もおらず、耳鼻削ぎをされた者は他国での生活もままならないらしい。作平も、そうしたなかで路頭に迷って、本国に戻ってきたようだ。「え、ウチだけなの……?」「会津もの、ってなんだよそれ……」、時代に乗り遅れた重役たちの驚愕が目に浮かぶ。 

 そこで、これを機にわが藩でも耳鼻削ぎ刑を廃止してはどうかという議論になったのだが、そこでかの「土津様御代」の実績という権威が独り歩きをはじめる。「いま日本の刑法では死刑にする必要もない罪人が死刑になっているのに対し、われわれは罪の軽重により耳鼻を鍛くことで、死刑になる者たちを救っているのだ。耳鼻削ぎ刑は安易に廃止するべきではない」「だいたい耳鼻のない奴を『会津もの』なんてよぶのは、どこのどいつだ! これからは他国の奴らに『会津もの』なんて言わせないために、耳鼻を削いだ奴はしっかり領内にとどめて、見せしめとしての役割を果たさせろ」――といったお決まりの意見が出された挙句、結論は「土津様御代より仰せ付けられたることゆえ、前々のとおり成し置」(保科正之様の時代からやってきたことなのだから、これまでどおりでゆく)という旧例墨守に終わってしまった。