それによれば保科は、寛文5年(1665)9月には、密通をした男女に対して、男は「男根を切り」(!)、女は「鼻を鍛(たた)」く、と定めている。これは鼻削ぎを女性の刑罰としている点で、一見すると中世の伝統に回帰しているようにもみえるが、それはたぶん偶然で、男の男根切りと等価な罰を探しあぐねた結果、消極的な選択としてとられたにすぎないだろう。他藩と同様、会津藩にも耳鼻削ぎ刑のジェンダー性はうかがえない。それよりなにより、中世では類例のほとんどない男根切りという刑罰が考案されている事実に、私などは驚かされる(「勉強熱心」な保科は、おそらく中国の史書などからこれを学んだのだろう)。
そして、保科は寛文7年閏2月には、池田光政同様、やはり耳鼻削ぎに処した者を領外に追放することを禁じている。きっかけは、以下のような藩の重役たちからの進言を受け入れたためである。
耳鼻を鍛き、あるいは額に火印を押し候儀は、諸人見懲らしのために候へば、会津所生の者、この刑にいたし、他所へ追ひ出し候ては、その詮これなく候。ついては耳鼻を鍛き、または火印を押し候者は、そのままにてその所々え差し置かれ、いかがあるべきや。
耳鼻削ぎや焼印刑は「見せしめ」のためにやっているのだから、他所に追い出しては意味がない、これからはそうした刑に処した者はそのままその地で生活させるようにしよう、というのだ。ここにも、耳鼻削ぎが「見せしめ」として絶大な効果があるという認識がうかがえる。この重役たちの進言を、保科はさすがにその土地に置いておくことが害になるような人物ならば追放するのはやむをえないという条件をつけつつも、ほぼ受け入れることになる。以後、この決定は会津藩のなかで「土津(はにつ)様(保科正之)御代」の伝統として長く墨守(ぼくしゅ)されてしまうことになる。
耳鼻削ぎの終焉と「生類憐みの令」
耳鼻削ぎの「見せしめ」効果に絶大な期待をよせていた会津藩だったが、やがて時代は大きく転回していくことになる。五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし[1646~1709])は「生類憐みの令」を出して、無益な殺生や流血を厳に戒める政策をとるようになる。かつて、この「生類憐みの令」は「悪法」の代名詞のように語られてきたが、現在の近世史研究では、殺伐とした戦国の遺風を断ち切り、平和と安穏の時代へと民衆を教化するための進歩的な政策であったという評価が定着している(一部に明らかな行き過ぎがあったことは認めねばなるまいが)。