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もはや幕府すらも耳鼻削ぎはやっていなかった

 会津藩がようやく耳鼻削ぎ刑の廃止に踏み切るのは、それから15年後の元禄11年(1698)3月のことである。それ以前の元禄9年3月にも、じつは会津藩は耳鼻削ぎに処した者は他国には出さず、領内に留め置くようにという指示を再度出している。おそらく、周辺の藩が耳鼻削ぎ刑を廃止するなかで、会津藩だけがその後も耳鼻削ぎ刑を固守しようとする姿勢については、内外でたびたび異論が出ていたのだろう。しかし、それでも耳鼻削ぎ刑にこだわる会津藩を変えたのは、他藩主からの一言だった。 

 前年の冬、加賀藩主の前田綱紀(まえだつなのり[1643~1724])から、江戸在駐の会津藩の重役たちに一件の問い合わせがあった。前田綱紀も、同時代から向学心旺盛な「名君」と謳われた人物である。問い合わせの内容は、キリシタンの取り締まりにからめて会津藩での刑法全般の実態についてだったが、そのなかに「耳鼻削ぎは保科正之公の時代のとおりに行っていますか?」という質問があった。 

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 世間の流行をすでに把握していた重役たちは、おそらく侮られてはなるまいと思ったのだろう。「全般的には正之公の時代と変わりませんが、最近は耳鼻削ぎなどはやっていません」と、まったく虚偽の返答をする(実際は少なくとも2年前まで執行していたことはまちがいない)。しかし、好奇心にあふれる綱紀はこの返答に満足せず、さらに「焼印刑とか、入れ墨刑はやっていますか?」と質問を続ける。 

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 さすがに適当な返答をするわけにもいかなくなった重役たちは、本国に確認の連絡を入れ、どのような返答が適切かと策を求める。問い合わせをうけた本国の重役たちはその返答のついでに、逆に江戸表の重役たちにかねて気になっていたある質問をする。「公儀(幕府)では、そうした肉刑は以前から行われていたはずではないのか? 確認して教えてほしい」。この依頼をきっかけに独自のリサーチを行った江戸表のメンバーは、ついに「公儀においては、かやうの肉刑、前々よりこれ無き」という衝撃的な情報を入手することになる。 

 もはや、江戸幕府すらも耳鼻削ぎはやっていない! この噂を知った藩主・松平正容(まつだいらまさかた)(1669~1731)は、慌てて自分の名前で幕府老中・阿部正武(あべまさたけ[1649~1704])に再度、事実関係を確認することになる。その結果、それが事実であることが判明。ついに元禄11年3月、会津藩はようやく時代遅れを認識し、保科正之以来の伝統を捨て、焼印刑・入れ墨刑を含むいっさいの肉刑の廃止を決断することとなる。 

 かくして藩祖以来の伝統も、厳罰主義から寛刑主義への転換のなかで変容を余儀なくされたのであった。やがて幕府も宝永6年(1709)には科人(とがにん)の「耳鼻をそぎ、または指などを切り候やうなること、向後(きょうこう)無用」という法令を出し、耳鼻削ぎなどの肉刑の廃止を宣言(『憲教類典』四の五)。その後、ついに寛保2年(1742)になって、基本法典『公事方御定書』が制定される。このなかで耳鼻削ぎは明確に排され、かわりに入れ墨刑が本格的に導入されている。ここに耳鼻削ぎの歴史は、正式に幕を下ろす。じつに「関ヶ原」から1世紀半の歳月が流れていた。「泰平の世」の到来といいながらも、戦国の遺風を真に払拭するには、かくも長大な時間を要したのである。 

【前編を読む】「なんというバカものだ!」「耳鼻を削いで追い出せ!」日本社会で刑罰として行われていた“耳鼻削ぎ”の“実態”とは

耳鼻削ぎの日本史 (文春文庫)

清水 克行

文藝春秋

2019年4月10日 発売