実際、すでに関ヶ原の戦いから100年が経過していたものの、それまでは、なお江戸市中のあちこちで戦国の気風に強い憧れを抱く傾奇者たちが乱闘や反社会的な行動を繰り返していた。彼らは刀の鞘に「生き過ぎたりや二十五(歳)」などと書いて、その心意気を示したといわれるが、そこには死に場所を失い、平和な時代に長生きしてしまったという悔悟の念と戦国への憧憬がうかがえる。しかし、そうした風潮も、この元禄時代前後をさかいにして、徐々に沈静化してゆくことになる。そうした静かな転換に後押しされるかたちで、政策としての「生類憐みの令」も発布されていたのである。
かつて戦国を生きる男たちのあいだで愛された「衆道」(男性の同性愛)が廃れていくのもこの頃のことであったし、男伊達を誇る髭の文化が廃れ、男たちがみな無髭になっていくのもこの頃のことであった。もはや戦乱の時代は遠い昔となり、徳川幕府の支配は磐石なものとなった。粗暴さや腕力が幅を利かせていた時代は終わったのである。まして、血なまぐさい見せしめ刑など、もはや誰からも歓迎されないものとなっていた。
「見せしめ」第一の厳罰主義から、人命尊重の寛刑主義へ
仙台藩の『評定所格式帳(ひょうじょうしょかくしきちょう)』(東北大学法学部所蔵)には、次のような記述が見える。
以前は耳鼻を切り、額に火印をあて、または指を切り候儀、数多ござ候ところ、近年公儀にても左様の儀ござなきよしにつきて、元禄十一年以後、疵をつけ候お仕置きござなく候。
かつては耳鼻削ぎ刑、焼印刑、指切り刑と、いろいろ肉刑もやっていたが、最近では幕府でもそんな野蛮なことはやっていないらしいので、仙台藩では元禄11年(1698)をもって肉刑は廃止した、というのだ。たしかに幕府も、この頃から鼻削ぎ刑を行わなくなっている。
ほかの藩をみても、どの藩もおおよそ元禄時代(17世紀末)ぐらいまでに耳鼻削ぎは廃止しているようだ。膨大な判例を書き残してくれていた岡山藩の『刑罰書抜』を見ても、元禄7年3月の事例を最後にして、耳鼻削ぎ刑の記述はなくなる。
耳鼻削ぎにかぎらず、幕藩体制の安定とともに幕府も各藩も、この頃になると従来の厳罰主義を捨て、全体として刑罰の度合いを軽減する寛刑化の方向へ舵を切ることになる。
「見せしめ」第一の厳罰主義から、人命尊重の寛刑主義へ。ここに幕藩体制は草創期の不安定さを克服し、次の新たな段階に入ったといえる。これを「文明」化とよぶことも、あながちまちがいではないだろう。そうした傾向のなかで、耳鼻削ぎ刑はしだいにその役割を終えることになったのだ。