死刑の一歩手前の刑罰としての耳鼻削ぎ
時代も国も異なるが、かつて古代中国にも耳鼻削ぎ刑は存在していた。ところが、それは、前漢の文帝(ぶんてい)の時代(紀元前167年)に原則的に廃止されることになる。ひとたび耳鼻削ぎが実行されれば、その者が過ちを改め自らを新たにしようと心がけても、失った耳や鼻は戻らない、耳鼻削ぎは非教育的な刑罰である、というのが廃止の理由だった(『史記』孝文本紀13年5月条など)。ところが、その後の中国の歴史のなかでは、事あるごとに耳鼻削ぎ刑の復活を求める議論が再燃する。耳鼻削ぎ刑復活論者の意見は多岐にわたるが、そのなかでしばしば唱えられていたのが、次のような主張だった。
耳鼻削ぎ刑がないことで、犯罪に対する処罰として、死刑と労役刑の中間にあたる刑罰がなくなってしまっている。中ランクの犯罪に対して死刑では重すぎるし、労役刑では軽すぎる。
つまり、耳鼻削ぎ刑復活論者はいたずらに残虐な刑罰を復活させようとしていたのではなく、むしろ中間的な刑罰が欠如していることで、刑の偏重・偏軽が起こっているとして、刑罰の適正化を図ろうとしていたのである。現在の日本でも死刑の存廃をめぐって、しばしば死刑と無期懲役刑の隔たりの大きさが問題にされるが、なにやらそれと似たような議論である。古代中国の人々や日本中世の人々は、そのあいだの「現実的」な選択肢として耳鼻削ぎ刑を位置づけていたのである。
もちろん、当時の人たちも耳鼻削ぎにされるのは嫌だったにちがいない。だが、正当な理由、不当な理由を問わず〈殺し/殺される〉ことが日常的だった当時の社会においては、〈殺し/殺される〉ことに比べれば耳鼻削ぎのほうがましだ、という切実な感覚が人々のなかにあったのではないだろうか? 良い悪いの問題ではなく、日本中世社会は〈殺し/殺される〉一歩手前の措置が現実的に用意されていて、それが次善の選択肢として一般に受け入れられていた社会だったのである。
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