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津和野は“最も拷問が厳しかった”地だった

 “山陰の小京都”と呼ばれる、現在の津和野からは想像できない、悲惨な歴史の一端に触れた際に抱いた疑問について、津和野カトリック教会の主任司祭を務める山根敏身さんに話を伺う機会を得た。

 なぜ、長閑なこの地で、凄惨な拷問が行われることになったのだろうか。まずは率直な疑問を投げかける。

山根司祭「長崎の浦上で改宗に抵抗したキリシタンが見つかったのは1865年のことでした。そこから、幕府はどうにか改宗をさせないといけないと考えたものの、1868年には戊辰戦争が起こり、会津や箱館は戦争状態にあったわけです。一方、西日本は新政府の支配下にあるという状況でした。そうした事情から、改宗をさせるべく、西日本の20藩22箇所にキリシタンたちが流配されたんです。

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 津和野が選ばれた理由は、はっきりとはしません。ただし、一つの解釈としてこんなふうに言われることがあります。

 御前会議で流配先が決められた際に、各地の大名に受け入れについての賛否を聞き、そのときに津和野の殿様が――田舎者ということもあってか――『説得すれば改宗するだろう』と主張した。津和野の殿様がそんなことを言っているので、周りから『できるものならやってみろ』と。ただし、記録には残っていないので、はっきりとはわからないのが本当のところです」

殉教者を悼んで建てられた十字架

 流配先での拷問は、記録によると、一番優しかったのが鹿児島、一番厳しかったのが萩・津和野だったのだそうだ。そうした差がなぜ生まれたのか、正確なところは明らかになっていないが、当時の支配者の立場によるところが大きかったのではないかと山根司祭は振り返る。津和野で起こった拷問の厳しさ、その実態はどのようなものだったのだろう。

山根司祭「はじめの頃は、――どこもそうでしたが――現地に住まわせて、武士やお寺の僧侶や神社の神官による改宗の説得程度だったようです。説得係を任された人は気の毒だったと思います。最初は浦上から送られてきた田舎の百姓だと思って説得をすることになる。そうすると、説得しようとしている相手から、逆に議論を持ちかけられるわけですからね。『あなたたちは太陽を拝めと言っているが、太陽をつくった神様を拝むべきではないのか』なんていう具合です。簡単ではなかったと思いますよ」