「命を、絶つことになるんですよね」
山根司祭「埒があかなくなったからなのか、当時の役人の本当の意図はわかりませんが、説得は拷問へと変わっていって、雪の降る頃に裸にさせられて池に飛び込めだとか、与える食料を制限して飢餓に追いやるだとか、三尺牢(四方約90cmで身動きの取れない小さな檻)に押し込めたり、着るものを与えなかったり、医療的な面でも……。改宗を迫るために、どんどん厳しい対応になっていったんだろうと思いますよ。かつてのキリシタンたちは、そういう厳しさの中で、そうですね。命を、絶つことになるんですよね」
そうした厳しい拷問の数々に手を染めた役人だが、もちろん人の心はあった。
山根司祭「萩に流配されていた方が病気になって弱っていたんです。そのとき、家族が津和野に流されていることを知った役人――恐らく僧侶か神官の方――は、その人を津和野に送ったんですよ。家族に会った安心感からか、改宗の説得は続いていたものの、その方はすごく元気になって、萩へと戻っていったそうです。厳しいばかりではなく、当時の役人にも人間としての優しさはあったんですね」
しかし、拷問による改宗が求められ続けたことは確かな事実だ。一方で、改宗した人は、乙女峠にある尼寺に住まわせられ、1日米5合、お菜代71文、ちり紙1枚を与えられ、自身で自由に働くこともできるという高待遇を受けることができた。そのため、拷問に至る前段階で改宗する人たちも少なくなかったという。
山根司祭「信仰を捨てた人もいるわけです。その人達は乙女峠にある尼寺に住まわされていました。『改宗したらこんな生活になるよ』と、心理的な圧迫をかけてくるんですね」
山根司祭「ただ、改宗した人は、この世の楽を謳歌するわけではなく、拷問に耐え抜く人たちに食糧を援助していたそうです。
後に明治政府は改宗した人を先に故郷・浦上に帰すわけですが、そのときに、まだ改宗せず抵抗を続ける人が、帰郷する人たちに『この人達はしょうがない。心ならずも改宗した。ただ、この人達のおかげで私達は信仰を貫きながら生きながらえている。だから、どうぞ彼らを赦して温かく受け入れてください』と手紙を持たせていたことが記録に残されています。改宗した人も改宗しなかった人もどちらも辛かったろうと思いますよ。望んでそうなったわけではないんですしね。そんななか、同じ宗教を信じる仲間、お互いがお互いを思い合って、できるかぎりの行動をおこしていたわけですね。麗しい話だと思います」
そうした共助があったことを知ってか知らずか、役人たちは改宗させるべく、互いの間に“軋轢”を生むことに躍起だった。