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 二子山は04年春と夏は場所を全勤した。しかし口内の不具合から会話はまったく不自由であった。同年11月の九州場所は3日目まで勤め、4日目に東京に帰った。しかし12月の理事会、師匠会には出席した。05年1月5日の稽古総見、6日の明治神宮奉納土俵入りにも姿を見せた。

 1月場所は全勤したが、1月30日に催された元大関貴ノ浪の断髪式には、予定時刻より20分遅れて姿を見せた。その間、貴ノ浪は国技館の土俵上でひとり着座して待った。貴ノ浪は二子山が藤島時代の87年、自ら勧誘して相撲界入りさせた愛弟子である。

 やがて登場した二子山は、歩行もままならないようすで、土俵へ上がるのに呼び出し2人の介助を受けなければならなかった。その顔と体は、病みやつれた老人のものだった。場所後10日しかたっていないというのに、そのあまりの面変わりぶりに招待客たちは声もなかった。

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 さらに招待客らを驚かせたのは、最後から2番目のハサミを入れて土俵下の席に着いていた二子山の前を、留めバサミを終えた貴乃花が、言葉はむろん、まったく視線さえ送らずに通り過ぎたことであった。

 2月23日、貴乃花部屋から相撲協会を通じて二子山の病名は口腔底がんであるという文書が関係者に送られた。二子山の看護は再び貴乃花夫妻に任されたかのようであった。

 5月23日にははげしく吐血して終末が近いと思われた。すでに体温は低下し、肺炎を併発していた。5月30日、逝去。55歳であった。あの、しなやかなイルカのようであった40年前を思い出せば、ただいたましかった。

家族解散、家業消滅

 兄の若乃花は相撲界を離れたが、貴乃花はとどまった。だが、2005年頃から協会運営に関する持論を展開、協会中枢との確執を生じた。10年初めに二所ノ関一門を離脱して貴乃花グループをつくった。同調したのは間垣(元2代若乃花)、音羽山(元貴ノ浪)、常盤山(元隆三杉)ら6人の親方であった。同年8月には要職の審判部長に就任、14年、貴乃花グループは貴乃花一門として認知されて協会内の一勢力となった。

 しかし17年11月に起きた、横綱日馬富士の貴乃花部屋・貴ノ岩に対する暴力問題の処理をめぐって、貴乃花は八角(元北勝海)理事長ら協会主流派と対立した。協会内での解決に努力せず、暴行現場を管轄する鳥取県警に被害届を提出したり、内閣府公益認定等委員会に告発状を送ったりした彼の発言と行動に、一時支持した親方たちも離れて行った。

貴乃花 ©文藝春秋

 18年3月、今度は弟子の貴公俊が付け人に暴行する事件を起こした。協会内部では貴乃花の契約解除(馘首)の声も上がったが、結局、平年寄への降格処分に落着いた。序列3位から83位への極端な降格であった。同年6月、貴乃花は自身が主役たる貴乃花一門からの離脱を表明、自動的に貴乃花一門は消えた。10月1日、貴乃花の退職とともに貴乃花部屋の力士8人は千賀ノ浦部屋に引き取られた。

「生真面目、かたくな、不器用」と評され、なにごとにつけ「過剰」であった貴乃花は、相撲協会のみならず、実兄、実母とも絶縁し、さらに18年10月下旬には23年連れ添った夫人と離婚して、ひとりの「タレント」となった。家族は解散し、家業は3代で消滅した。

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