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《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡

『人間晩年図巻 2004-07年』より #1

2022/01/13
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 だが25歳の75年、貴ノ花は心機一転、頸椎・腰椎の引き延ばしや腰の温熱療法を熱心に実行して再び持続力を回復、3月場所では北の湖との優勝決定戦に臨んだ。貴ノ花は北の湖の上手投げを腰を落としてこらえ、寄り切って勝利した。悲願の初優勝の表彰式で優勝旗を手渡したのは兄・二子山審判部副部長であった。この年9月場所でも貴ノ花は決定戦で北の湖を破り、二度目にして最後の優勝を果たした。

 それ以後貴ノ花は地味な大関に逆戻りするのだが、その75年9月、幕内に昇進したのが5歳下の千代の富士である。力士としては細身、強くしなやかな筋肉を持つ体型は貴ノ花のそれとよく似ていた。しかし千代の富士には左肩を脱臼する癖があった。相撲をやめるか、困難な道ではあるが肩を守る鎧のように筋肉をつくり上げるかどちらかしかない、と医者にいわれ、千代の富士は筋肉を鍛えながら太る道を選んだ。そんなとき、貴ノ花に禁煙を強く勧められて実行、50万円のダンヒルのライターを隅田川に投げ捨てた。禁煙は体重増加と筋肉増強に卓効があり、横綱になれたのは貴ノ花関のおかげ、という千代の富士の述懐には真実の響きがあった。

千代の富士 ©文藝春秋

 しかし貴ノ花自身は深刻な病気にかかるまで禁煙できなかった。貴ノ花は80年11月、場所3日目に千代の富士に敗れたことで引退を決意したといわれ、大関在位50場所目となる翌81年1月場所途中で引退した。30歳11ヵ月であった。

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 その千代の富士の横綱昇進は8ヵ月後、81年9月である。優勝31回、88年5月から11月まで53連勝の記録を残した千代の富士は、91(平成3)年5月場所限りで引退したが、引導を渡すかたちになったのは、初日に千代の富士を破った元貴ノ花の実子貴花田と、3日目に破った元貴ノ花の弟子、藤島部屋の貴闘力であった。因果はめぐるのである。

藤島部屋の盛衰

 引退した貴ノ花は年寄鳴門となり、81年末、名跡を藤島に変更して翌年には二子山部屋から独立、藤島部屋を設立した。藤島の指導能力には定評があり、大関貴ノ浪、関脇安芸乃島、貴闘力らを育てた。88年には長男(若花田)と次男(貴花田)が入門した。2人は曙、魁皇と同期である。

 93年、兄二子山が相撲協会の定年を迎えるとき、藤島は二子山(11代)を襲名、藤島部屋が二子山部屋に吸収されるかたちをとったため、新二子山部屋は一気に大部屋となった。94年11月に貴乃花が横綱になり、98年5月に若乃花(3代)が横綱となるまでが、2横綱1大関三役2人を含んで力士50人を誇った二子山部屋の全盛期であった。11代二子山自身も96年、協会理事に昇格、巡業部長に就任した。

 93年の二子山部屋と藤島部屋合併の折、兄(10代二子山)に支払った名跡譲渡金3億円の申告漏れを96年に指摘されたときが翳りの始まりであった。また若乃花が横綱に昇進した頃から、若貴兄弟の不仲が噂されるようになった。

若乃花 ©文藝春秋

 2000年、若乃花は2年に満たない横綱在位ののち、29歳で引退した。もともと相撲界にさしたる愛着を感じていなかったという若乃花は、引退後に協会を離れ、花田虎上を名のった。二子山親方が長年連れ添い、若貴兄弟の母親である憲子夫人と離婚したのは2001年である。親方の主治医と憲子夫人の「不倫」が報道された結果であった。