国民的スターから市井の人まで、個性豊かな晩年を匠の筆で描き出し、彼らが世を去った〈現代〉という時代を浮かび上がらせる――。山田風太郎が著した『人間臨終図巻』の衣鉢を継ぐ、21世紀の新たなる図巻シリーズとして、小説家・ノンフィクション作家の関川夏央氏による『人間晩年図巻』が各方面からの注目を集めている。

 ここでは、同シリーズより『人間晩年図巻 2004-07年』(岩波書店)の一部を抜粋。“冬ソナ”ブームから“サブプライムローン”ショック……。時代が大きく変わっていくなか晩年を迎えた初代貴ノ花の人生を通じ、三代で家業が消滅した花田家の軌跡について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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家族解散、家業消滅

 貴ノ花、本名花田満は1970年代の人気力士で、その足腰の柔らかさと強さを武器に大関を50場所つとめた。身長183センチ、体重114キロというのが現役時代の公式記録だが、実際には体重100キロに満たなかった時代が長い。

初代貴ノ花 ©文藝春秋

 花田家10人兄弟の長男が第45代横綱若乃花勝治で、満はその22歳下の末っ子であった。青森県弘前でリンゴ農家だった花田家は、1934(昭和9)年の室戸台風で果樹全滅、一家をあげて北海道室蘭に移住した。やがて大家族の家計の中心となったのは、室蘭港で荷役労働に従事した勝治であった。

 終戦直後の1946年、18歳の花田勝治は、巡業で室蘭を訪れた大相撲の興行に飛入りして数人の相撲取りに勝った。荷役の仕事で鍛えられたその強靱な筋肉は、二所ノ関部屋の力士、大ノ海(のちの花籠親方)の目を引いた。背は高かったものの当時の体重70キロ、力士としては無理ではないかと周囲は不安視したが、大ノ海はあきらめなかった。自分の内弟子という特例でこの年角界入りさせた。

 同年11月に初土俵を踏んだ花田勝治は、「若ノ花」の四股名で順調に出世し、49年5月には十両、その年のうちに新入幕を果たした。50年2月、満誕生の知らせを聞いた若ノ花は当初姉の子どもと思ったが、自分の弟と聞いて驚いた。大相撲が年4場所となった52年、大ノ海が二所ノ関部屋から独立して芝田山部屋を開設(翌年花籠を襲名)、部屋頭となった若ノ花は55年秋、大関に昇進した。その年11月、室蘭の父親が亡くなり、若ノ花は母親の懇請で家族6人を引き取った。後年貴ノ花となる末弟はまだ5歳であった。

 57年9月場所より「若乃花」に改名、年6場所開催となった58年1月、若乃花は2回目の優勝、場所後第45代横綱に推挙された。29歳であった。3歳上の好敵手栃錦との対戦は51年に始まるが、交互に優勝を分け合う「栃若時代」は58年からで、60年3月には2人とも全勝のまま千秋楽に対決して若乃花が勝った。生涯対戦成績は栃錦19勝、若乃花15勝であった。

 62年5月、若乃花は34歳で引退、10代二子山を襲名し、円満に花籠部屋から分かれて二子山部屋をおこした。

「これからは敵だと思え」

 末弟花田満は二子山部屋のある杉並区で育った。満は中学時代に水泳選手となり、100メートルバタフライの中学記録を何度も更新した。そのまま高校、大学と水泳をつづければオリンピック出場は確実、メダルも濃厚と見られていたが、1965年の中学卒業前、本人が二子山部屋入門を希望した。

 二子山が弟の角界入りに強く反対したのは、末弟にはオリンピック選手になってもらいたかったからである。また、かつて入門した上の弟、若緑(花田陸奥之丞)を肉親の情からつい甘やかし、成功しないままに廃業させてしまった記憶のせいでもあった。