野茂英雄、田口壮、イチローら、その後MLBで活躍する名選手を指導したほか、「仰木マジック」と呼ばれる意表を突く采配で野球ファンから愛された仰木彬監督。奇才ともいえる同氏の生涯はどのようなものだったのだろう。

 ここでは、小説家・ノンフィクション作家として活躍する関川夏央氏が、記憶に残る著名人の晩年を描いた『人間晩年図巻 2004-07年』(岩波書店)の一部を抜粋。選手の個性と自主性を尊重した名将・仰木彬氏の在りし日の姿を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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「パ・リーグひと筋」パンチパーマ

 1988年10月19日、ロッテオリオンズの当時の本拠地・川崎球場でロッテ対近鉄バファローズのダブルヘッダーが行われた。普通なら、時代離れした球場でわずかな観客を前にした「消化試合」のはずだが、この日は3万人の観客が集った。近鉄が連勝すれば久しぶりにリーグ優勝となるからだった。

 この年のペナントレースは、西武ライオンズが終始リードした。秋山、清原、デストラーデ、石毛、伊東、辻とつながる打線、それに工藤、石井、渡辺ら強力な投手陣を誇る西武は、森祇晶監督のもと、86年から94年までの9シーズンでリーグ優勝8回、日本シリーズを制すること6回という全盛期を迎えていた。

仰木彬監督 ©文藝春秋

 しかし88年はシーズン後半に至って仰木彬監督指揮の近鉄が巻き返し、9月15日の6ゲーム差から0.5ゲーム差まで迫っていた。すでに西武は全日程終了していたが、近鉄は2試合を残していた。それがこの日のダブルヘッダーで、近鉄がロッテに連勝すれば勝率で西武を上回る。しかし、1敗しても1勝1引き分けであってもわずかにおよばない。

「いてまえ打線」対「管理野球」

 第1試合は8回まで同点であった。ロッテは9回表、リリーフエースの牛島を投入したが、2死2塁で仰木は、この年での引退を表明していた梨田を代打に送った。梨田の打球はふらふらと上がり、センターと2塁の間にポトリと落ちた。2塁走者が生還して近鉄は勝ち越した。その裏、仰木はクローザー吉井にかえて先発エースの阿波野のをマウンドに送り、その試合に勝利した。

 第1試合が長引いたため、第2試合の開始は午後6時44分になっていた。やはり追いつ追われつの緊迫したゲームとなり、6回に同点、7回表、下位打線の連続ホームランで近鉄は3対1とリードした。その裏、仰木は先発で好投していた高柳にかえ、吉井をリリーフに出したものの、ロッテに追いつかれる。

 8回表、ブライアントのホームランで近鉄は再び勝ち越した。その裏、仰木が吉井にかえて再びピッチャー阿波野を宣言すると、ベンチに戻った吉井はグラブを投げつけて悔しさをあらわにした。だがその阿波野が打たれて同点。

 テレビ朝日は視聴者の要望を受けて9時から全国放送に踏み切り、「ニュース・ステーション」が始まる10時になっても、「いまパ・リーグが大変なことになっています」という久米宏キャスターのコメントとともに、川崎球場からの中継をつづけた。

 9回裏、4対4でロッテは無死1、2塁、近鉄がサヨナラ負けのピンチだった。このとき阿波野が2塁牽制、高く浮いた球を大石がジャンプして取り、ランナーに接触してタッチした。判定はアウトだったが、ロッテ有藤監督が走塁妨害ではないかと猛然と抗議、それは9分間におよんだ。