昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2022/01/13

 問題は試合時間だった。試合が4時間を超えた場合、あらたな延長回に入らないというのが当時のルールで、10回表の近鉄の攻撃が無得点に終ったときにはすでに午後10時41分、4時間まであと3分しか残っていなかった。その裏のロッテも得点できず、試合は引き分けに終った。2試合計7時間33分の死闘の末、近鉄は勝率で西武に2厘およばなかった。

 有藤はそのいらざる(と見えた)抗議で評判を落とした。しかし監督1年目の仰木は前年最下位、大阪河内の豪快な「いてまえ打線」の近鉄を率いて「管理野球」森監督の西武をあと一歩のところまで追いつめた男として名を上げた。

 この年9月、南海ホークスがダイエーに身売りして福岡に移っていた。また10月19日、近鉄対ロッテ最終戦のまさにその日、古豪阪急ブレーブスがオリックスに身売りすると発表した。それらはのちに、福岡、札幌、仙台、千葉など地方中核都市の地元ファンを育て、永く読売ジャイアンツ中心であったプロ野球の「制度疲労」回避とパ・リーグ再興につながる第一歩といえた。

 翌89年のシーズン、近鉄はリーグ優勝した。この年も近鉄は、ペナントレース終盤までオリックス、西武とつばぜり合いを演じた。10月12日の対西武ダブルヘッダーでブライアントが第1試合3本、第2試合1本のホームランを放ってマジック2が点灯、14日のダイエー戦で優勝を決めた。2位オリックスに勝率1厘差、3位西武に2厘差の優勝であった。だが読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、3連勝後に4連敗、日本一の座を逸した。

西鉄ライオンズ入団

 1935(昭和10)年に福岡県で生まれた仰木彬は、北九州折尾の東筑高校から54年、西鉄ライオンズに入団した。大戦末期に戦死した父親にかわって母親を支えようと、仰木は八幡製鐵就職をめざして工業高校を希望したのだが、進学校で野球も強かった東筑高校に誘われ、その商業科に進んだ。高校ではピッチャーとして活躍したが、プロではまったく通じず、三原脩監督から内野手転向を命じられた。

 当時の西鉄ライオンズは三原監督のもと「野武士軍団」と呼ばれた豪快なチームであった。仰木の2年先輩、中西太が3番バッターでチームの中心、高倉、豊田、大下、関口、河野の打線に西村、河村の投手陣で強力であった。ここに高校出の投手、稲尾が加わって、西鉄ライオンズは56年から58年までリーグ優勝したうえに、3年連続日本シリーズで読売ジャイアンツを破った。ことに58年のシリーズは、エース稲尾の大車輪の活躍で3連敗後の4連勝という劇的な勝利であった。仰木もこの打線に7番打者として加わり、地味な存在ながら西鉄全盛期に貢献した。

 貴公子然とした顔立ちの仰木だったが、「野武士」たちの間でもっとも多く飲み、もっとも多く遊んだといわれる。後年仰木は、選手として二流で終ったのは遊びが過ぎたせいかと反省したが、その酒の強さは尋常ではなかった。67年に引退、西鉄のプレイイング・マネージャーとなっていた中西太のもと、2年間コーチをつとめた。