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《野茂英雄やイチローらを指導》階段の昇降すら困難な状態で試合を采配…“名将”仰木彬監督の“知られざる晩年”

『人間晩年図巻 2004-07年』より #2

2022/01/13

 野茂とイチローのフォームをいじらなかったこと自体が仰木の功績だろう。才能があると認めた者には干渉しないという態度は、なかなかとりにくいものだ。もっとも、仰木はスター選手には柔軟に接したが、それ以外の選手には無茶苦茶きびしかったとの声も当時の選手から聞かれる。

仰木彬監督 ©文藝春秋

 近鉄で仰木のあとを襲った鈴木啓示監督は、現役時代に300勝をあげた自信から野茂にフォーム改造を命じ、嫌われた。鈴木監督のもとでは野球ができないと考えた野茂は、95年、自らが強く望んだわけでもないメジャーに移籍したのだが、大リーグ123勝の野茂の活躍は、皮肉なことに鈴木啓示がもたらしたのである。

生涯「パ・リーグひと筋」

 2002年から04年まで解説者をつとめた仰木は、04年初め「野球殿堂」入りを果たした。この04年は、近鉄球団消滅というプロ野球を震撼させた事件の年である。これを機に読売、西武などは10球団1リーグ制をめざしたが、近鉄とオリックスの合併という荒業が実行され、楽天が仙台を本拠地とした新球団イーグルスの創設を発表して2リーグ制は維持された。ネット事業のライブドアも新球団創設に名のりをあげたが、こちらはほとんど顧みられなかった。

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 その04年シーズン終了後、新球団オリックス・バファローズの監督に仰木は就任した。69歳、当時最高齢の監督であった。

 その直後の12月、大阪のホテルで「仰木彬・殿堂入り記念パーティ」が開かれた。仰木自身はこのパーティを「生前葬」と呼んだが、中西太と近鉄OB中でもっとも親しかった金村義明ら一部の関係者以外は病気を知らなかったので、会場は明るい笑いに満ちた。

 近鉄からヤクルトを経てメジャーのメッツに移り、帰国した03年にオリックスに入団して04年オフに戦力外通告を受けていた吉井理人が、「最後は仰木さんのもとでプレーして終りたいですね」と挨拶をすると、仰木はその場で球団社長に「吉井を残してください。なんなら年俸は私が払いますから」といった。吉井は冗談と受け取ったが、05年のキャンプに仰木は吉井をテスト参加させ、新球団への入団を決めた。40歳の吉井は、その年6勝をあげた。

 このとき仰木は03年春に再発した肺がんの治療中であった。

 最初の肺がん発症は95年、千葉で行われた「がん撲滅チャリティゴルフコンペ」の帰り、中日に移った金村義明といっしょに帰る電車の中で倒れた。このときは手術で寛解に至ったが、その再発であった。

 それでも免疫療法によって05年シーズン前半は元気で、酒量は変わらず、また選手にまじって筋トレに励んだ。だがシーズン後半、夏風邪をこじらせたのを契機に急速に弱った。

 シーズン終盤には階段の昇降が困難となり、エスカレーター、エレベーターのない西武ドームでは、外野の大道具搬入口からグラウンドに出入りした。この年のオリックスは62勝70敗4引き分けで4位、クライマックス・シリーズと呼ばれるプレーオフには進出できなかった。

 最終戦翌日に監督を退任、球団のシニア・アドバイザーに就任したが、わずか2ヵ月後の12月15日に仰木彬は亡くなった。70歳であった。西鉄時代の三原脩監督は、意外な作戦、意外な選手起用を行ってしばしば成功、「三原魔術」と称されたが、その継承者で「野武士」の生き残りでもあった仰木彬は、1950年代西鉄ライオンズの記憶とともに去った。

【前編を読む】《三代で家業消滅》「これからは父とも兄とも思うな」「縁を切って敵だと思え」花田家が角界から去るまでの波乱万丈すぎる軌跡

人間晩年図巻 2004―07年

関川 夏央

岩波書店

2021年11月29日 発売

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