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《野茂英雄やイチローらを指導》階段の昇降すら困難な状態で試合を采配…“名将”仰木彬監督の“知られざる晩年”

『人間晩年図巻 2004-07年』より #2

2022/01/13
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 70年、35歳のとき当時近鉄監督となっていた三原脩に招かれ、守備走塁コーチに就任した。そのまま定着して84年には監督に昇格するはずだったが、女性問題が原因の離婚が近鉄フロントの不興を買い、岡本伊三美にその座を譲った。近鉄コーチ18年、監督就任は1987年シーズン終了後、52歳であった。

 89年、近鉄球団はリーグ優勝のご褒美としてオフに選手一同のハワイ旅行を企画したが、シブチンで有名な近鉄は家族の旅費は選手持ちとした。不満の声が上がると、選手の妻は球団負担にしたが、子どもの旅費は選手負担であった。またビジネスクラスでは予約が取れなかったという理由でエコノミークラスの旅となった。このときホノルル空港の税関から仰木がなかなか出てこなかったのは、パンチパーマにサングラス、そのうえトランクに300万円のキャッシュを入れていたので「ジャパニーズ・マフィア」では、と疑われたためだった。

 パンチパーマ、サングラス、それにロレックスの腕時計、ベンツを好むのがプロ野球的、ことに西日本プロ野球的センスだったが、仰木の場合は運転免許を持たず、コーチ時代には近鉄電車で藤井寺球場に通勤した。監督昇格後は、彼が招いた中西太コーチの車で球場入りした。

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 そんな仰木の趣味は、まず酒であった。春のキャンプで球場に向かうときも、球場に着いてからも現役選手以上に走っていたのは、前夜の酒を抜くためだったという。筋トレにも熱心で、トレーニング・ルームのマシンを使う頻度が現役選手より高く、ゴルフ場では遅れたパートナーを腕立て伏せや腹筋をしながら待った。若くありつづけたい、女性にモテたい、筋肉を誇りたい、そんな気持がことさら強く、それは最期近くまでかわらなかった。

二大スターを育てた「育成手腕」

 1989年晩秋のドラフト会議で、近鉄は8球団競合となった新日鐵堺所属、21歳の野茂英雄を獲得した。8人目に仰木が当たり籤を引いたのである。

 その野茂は、投球するときほとんど後ろを向くような変則フォーム、のちに「トルネード」と呼ばれる投げ方だった。投手コーチは、あれではコントロールがつかないと否定的だったが、ビデオをていねいに見た仰木は、野茂と新日鐵堺の監督に、フォームをいじらないと告げた。

野茂英雄氏 ©文藝春秋

 1年目、90年のオープン戦で野茂は不調だった。四球を連発するのである。ペナントレース開始後も敗戦がつづいた。しかし仰木は何もいわなかった。すると4月末にはプロ相手の投球術をつかんだか、フォークボールで三振の山を築くようになった。野茂はその年、1試合平均10.99個の三振を奪って奪三振王、勝率1位、最多勝、最優秀防御率のタイトルを取った。しかし近鉄は、野茂の活躍にもかかわらず90年のシーズンを首位から14.5ゲーム差の3位で終えた。91年、92年、ともに西武の後塵を拝する2位で、仰木は近鉄監督を辞した。