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《野茂英雄やイチローらを指導》階段の昇降すら困難な状態で試合を采配…“名将”仰木彬監督の“知られざる晩年”

『人間晩年図巻 2004-07年』より #2

2022/01/13
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 94年、オリックス・ブルーウェーブ監督に招かれた仰木は、2軍の鈴木一朗(イチロー)を見てすぐに1軍に上げ、2番を打たせた。ドラフト4位で入団して以来、鈴木が1軍と2軍を往復させられていたのは、非力さを補うために2軍の打撃コーチと編み出した片足を上げて「振り子」のように振る打法を、1軍の打撃コーチや前監督が認めなかったためであった。しかし仰木は鈴木のフォームもいじらなかった。それどころか新井宏昌コーチを専属のようにつけて「振り子打法」を完成させようとした。

仰木彬監督とイチロー氏 ©文藝春秋

 シーズン開始直前、仰木は3年目となっていた鈴木を呼び、本名が地味だから登録名を「イチロー」に改めてはどうか、といった。鈴木が渋ると、仰木はその場にドラフト1位ながら、もうひとつパッとしなかった外野手・佐藤和弘も呼んで、おまえはパンチパーマだから「パンチ佐藤」にしろ、といった。佐藤が即決で承諾したので、鈴木一朗も渋々ながら従った。

予告先発と「猫の目打線」

 仰木の新機軸は選手の命名だけではなかった。ピッチャーの予告先発は、オリックスとパ・リーグ人気回復の手立てであった。相手投手にあわせて細かに選手と打順を変える「猫の目打線」は、その年から猛然と打ち出したイチローと、ドラフト1位でその才能を早くから認められていたもののスローイングに難があって内野では本領を発揮できず、仰木が外野にコンバートした田口壮以外は非力な打線を弥縫するためであった。

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 イチローは天才ぶりを遺憾なく発揮、94年から2000年まで7年連続首位打者となった。また94年から98年まで最多安打、95年には盗塁と打点でタイトルを取った。1番打者で打点王とは破格である。さらに94年から00年までの7シーズンで5回の最多出塁率を誇った。

 この時期のオリックスの外野は、田口、本西、イチローで強肩の鉄壁、相手チームが走者3塁のとき外野フライを上げても犠牲フライにならないことが少なくなかった。さらにイチローの返球「レーザービーム」によって3塁でランナーがしばしば刺され、それは他球団、とくに西武の恐れるところとなった。

 阪神・淡路大震災直後で一時は試合開催さえ危ぶまれた95年のシーズン、オリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉に戦い、リーグ優勝した。日本シリーズでは野村克也監督のヤクルトスワローズに敗れたものの、翌96年にもリーグ優勝、日本シリーズでは長嶋茂雄監督の読売ジャイアンツを4勝1敗で降して、初の日本一に輝いた。

 96年のオールスターゲームでパ・リーグ監督の仰木は、松井秀喜に対するワンポイントとしてイチローをマウンドに送った。イチローは高校時代にピッチャーであった。それもまたファンサービスだったが、このときセ・リーグ監督であった野村克也には通じず、野村は松井に失礼だとピッチャーの高津臣吾を代打に出した。仰木は2001年までオリックスの監督をつとめたが、その年イチローは大リーグのシアトル・マリナーズに移籍し、初年度から首位打者、盗塁王、最多安打、シーズンMVPなどのタイトルを得た。