満の決意の固さから最後には二子山部屋入門を許したのだが、現役時代「土俵の鬼」と異名をとった二子山は、15歳の弟に、「これからは父とも兄とも思うな。縁を切って敵だと思え」と告げた。23年後の88年、初代貴ノ花は、自ら創設した藤島部屋に長男勝(若花田、のち3代若乃花)と次男光司(貴花田、のち貴乃花)が入門を望んだとき、長兄勝治が自分にいったのとそっくりおなじ言葉を兄弟に与えるのである。
65年5月に初土俵を踏んだ初代貴ノ花(69年11月までは本名の花田満を名のる)は順調に番付を上げ、68年3月場所、当時史上最年少記録の18歳0ヵ月で十両に昇進した。この時期、二子山部屋の近くにあった日大相撲部合宿所から部員が稽古にきていたのだが、そのひとり、2歳上の輪島に十両の貴ノ花は勝てなかった。二子山は烈火のごとく貴ノ花を怒ったが、これを機に貴ノ花と輪島は親しくなり、友情は輪島の大相撲入り以後も維持された。
新入幕は68年11月、明治以降初の兄弟幕内力士の誕生であった。しかし貴ノ花の体重は増えない。その食事風景を見た横綱北の富士は、ほとんどベジタリアンのような内容に驚き、あれでは太れないと嘆息した。喫煙の習慣も体重増を妨げた。97キロの体重を、力士としてみっともないからという理由で、106キロとマスコミに伝えたのはこの頃である。
そのうえ、強靱な筋肉質の体にもかかわらず、貴ノ花は内臓が弱かった。酒が力士の体をつくるという二子山親方の考えから無理に飲まされて胃潰瘍になったり、上気道炎に苦しんだり、肝硬変直前の状態に陥ったりした。20代半ばには腎臓の不調に苦しんだ。
71年5月場所5日目、貴ノ花は横綱大鵬を破り、大鵬はこの日を最後に引退した。新旧交代の歴史的な日であった。貴ノ花はその容貌のみならず、「もうひとつの生命がある」と評されたしなやかな足腰、そして決して「かばい手」をせず、顔から土俵に落ちることをいとわない相撲態度ゆえに圧倒的な人気を博し、結果、大鵬のあまりの強さゆえに沈滞していた大相撲人気の回復に大きく貢献した。さらに72年9月、そろって大関に昇進した輪島とのライバル対決の物語が加わった。輪島は73年7月、横綱に昇進した。
その輪島に強く、19勝24敗の生涯成績を残したのが巨漢力士の高見山であった。貴ノ花の6歳上、64年にハワイから来日して初土俵を踏んだ高見山は、68年1月入幕、外国出身力士として初めて優勝したのは72年7月であった。身長192センチ、体重205キロの高見山と、体重が半分しかない貴ノ花の勝負は「牛若丸と弁慶」の勝負にたとえられて、本場所ごとに観客を沸かせた。
千代の富士に「助言」
貴ノ花の3歳下、北の湖の入幕は72年1月、2年半後の74年9月には横綱に昇進した。それまでは70年3月、同時に横綱昇進した北の富士と玉の海が土俵の中心で「北玉時代」と呼ばれたが、71年10月11日、玉の海が手遅れになりかけた虫垂炎の手術後の合併症、肺動脈血栓で急死した。27歳であった。
その後「貴輪時代」をスキップして、左下手投げを必殺の武器とする輪島と「憎らしいほど強い」北の湖、「輪湖時代」へと移る。二子山部屋からはやはり貴ノ花の3歳下、若三杉が成長し78年5月、2代若乃花として横綱に昇進する。貴ノ花は、毎場所9勝6敗の「クンロク大関」の異名とともに取り残された。