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歩いて行くと小さなスタジアムが。これは…

 せっかくなので、少し旧東海道を歩いてみよう。北に向かって歩いて六郷橋で多摩川を渡れば東京都。川崎はそんな都県境の際にある町でもある。

 六郷橋方面に進むと、すぐに賑やかな駅前繁華街とは違って静かな街並みに変わってゆく。そこで右手の路地を見てみると、うーむ、これは……。

 実は、というほど大仰なことではないが、旧東海道とその東側を通っている第一京浜、その間には堀之内の歓楽街がある。そうとう元をたどると川崎宿の飯盛女がいた旅籠にはじまり、堀之内は戦後発展。旧宿場町にルーツを持ち、東京や横浜から近く、さらに人の行き来も多い工業都市でもあった川崎はそうした産業が発展するにはちょうどいい町だったのかもしれない。

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 そのまま第一京浜に出る。第一京浜の向こう側は巨大なマンションがずらりと建ち並んでいる。最近になって建てられたのだろうとおぼしきものも目につく。第一京浜を挟んで歓楽街とマンション群。なんだか別世界が隣り合っているようだ。

 

 ただ、マンション群側、つまり第一京浜の東側に行けば川崎競馬場、さらに南に川崎競輪場というギャンブル施設が揃っている。その間にはマンション、住宅地。子どもたちが遊ぶ小さな公園と、それを見守るお母さん。築年数の新しい住宅やマンションも多い。

 その間を縫って進み、川崎競輪場の南側には富士通スタジアム川崎という小さなスタジアムがある。これはかつてロッテオリオンズの本拠地だった川崎球場の跡だ。いまでも川崎球場時代の古びた照明塔が建っていて、ほんのり歴史を匂わせる。

ガラガラのスタンドで流しそうめん…当時のパ・リーグと“昭和の川崎”

かつての川崎球場 ©文藝春秋

 川崎球場はガラガラのスタンドで流しそうめんをしたりカップルが人目を憚らずにいちゃついたりするシーンがよく知られるところだが、それは当時のパ・リーグの現実を示すのと同時に“昭和の川崎”のイメージを作り上げた。

 今の川崎市民のみなさんにとっては良いことではないかもしれないが、川崎球場・川崎競馬・川崎競輪とあって、そこと川崎駅の間には歓楽街。“昭和の川崎”にはそうした町としてのイメージがどうしたってついて回ったのである。

 ちなみに、川崎競馬場一帯にも戦前には富士紡績の工場があって、それが空襲で焼けてしまって跡地にできたのが競馬場。川崎は駅の東も西も、旧東海道沿いの市街地を除けばほとんどが工業地帯から成り立っていた町であった。