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 今でも駅の東、川崎大師に向かって進むと、京急大師線の線路際には味の素の工場がある。住宅地の中にも古い町工場が点在していて、そうしたところからも古き川崎の面影が感じられるのである。

全国3位初詣客が集まる寺・川崎大師をめぐる“100年のバトル”

 ……といっても、やはり川崎駅を語るならば川崎大師である。

 川崎大師がどんなお寺か、などということは改めて説明するまでもないが、正しくは平間寺といい、弘法大師を本尊とする真言宗智山派の総本山だ。コロナ前の初詣客は300万人に迫り、全国3位の記録を誇る。

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弘法大師を本尊とする真言宗智山派の総本山・平間寺(川崎大師)

 川崎大師への初詣、これは日本初の途中駅・川崎駅と実に深い関係にある。1872年に川崎駅が開業すると、最初は初縁日(初大師)の毎年1月21日を中心に鉄道を使って参詣する客が押し寄せるようになった。年々その客は増えていき、1889年の元日からは元旦に臨時列車が運転されるようになる。これが、いまでいう大みそかから元旦にかけての終夜運転の祖といっていい。

 さらに、1899年には参詣客の輸送をあてこんで大師電気鉄道が開業する。いまの京急電鉄の前身にして、関東地方における電車運転のはじまりであった。東海道線、つまり国営の官設鉄道と私鉄の京急(大師電気鉄道から当時は京浜電鉄に改称)は初詣客の輸送を巡って激しく競い合ったという。

 

 官設鉄道は臨時列車を走らせる程度だったが、京浜電鉄は運賃の値下げで対抗、官設鉄道が所要時間短縮に踏み切ると京浜電鉄は多摩川の向こうの穴守稲荷とセットで参詣できる絵はがききっぷを売り出した。初詣客を巡って、こんなバトルが100年以上前に繰り広げられていたのだ。

150年前と変わらない「川崎」の正月

 そして川崎大師への参詣客輸送がカネになる、と広く知られるようになると、成田山新勝寺や住吉大社、太宰府天満宮など名だたる名刹への輸送を担う路線が全国あちこちで生まれていった。つまり、川崎は“日本初の途中駅”であると同時に、“関東電車発祥の地”、加えて“初詣列車発祥の地”でもあったのだ。

 

 150年の間に川崎の駅とその町は大きく変わった。旧東海道沿いの市街地は爆発的に拡大し、川崎競馬場と川崎競輪場は残ったが川崎球場は今はない。堀之内の歓楽街も、いずれは消えていく運命にある。駅の周りの工場群はラゾーナ川崎やソリッドスクエアに生まれ変わった。JRも京急も、ライバルというよりは互いに補完しあって川崎と東京・横浜の間の輸送を担っているというほうが正しいだろう。

 そんな町の変化の中で、150年間変わることがなかったのが川崎大師参詣客の輸送であった。川崎駅前、お正月。初詣客が京急大師線に乗り換えたり、直通のバス乗り場に行列をつくったり。スタイルこそいくらか変わっていても、150年前と変わらないものが川崎駅には残っているのである。

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