2010年ごろから始まったアイドル戦国時代、その台風の目となろうとしていたのが新生・東京パフォーマンスドール(TPD)だ。篠原涼子らを輩出したTPDをリニューアルさせたグループは、CBGKシブゲキ!!で定期公演を行ない、中野サンプラザにも進出した。

 しかし、TPDのストイックなパフォーマンスの軸になっていた小林晏夕は17年11月から活動を休止し、18年4月にグループを卒業。表舞台から姿を消してしまう。

 2020年6月、小林晏夕は広瀬晏夕に改名し、芸能活動再開。オーディションでRIZINガール2020に選ばれた。現在はレースクイーンや清水エスパルスの広報部アンバサダーとして活躍中の広瀬が「あの頃」と「いま」を語ってくれた。

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――広瀬さんはTPDの中でも特にダンスが上手いメンバーという印象がありました。

広瀬 ただ、ダンスのイメージが強い分、歌をフィーチャーされなくて。最初にいただいた先代の楽曲『ダイヤモンドは傷つかない』のリアレンジは、サビのダンスこそセンターになるんですけど、歌のパートをもらうことができなかったんです。それがすごい悔しくて、「絶対に歌メンに入りたい!」と歌唱力を磨くことにウェートをおいたんです。TPDはレコーディングしてから歌割りを決めるんですけど、次の『十代に罪はない』から歌割りをいただけるようになりました。

 

――自分の中で目標を設定して、解決していったんですね。

広瀬 ライブにきてくれたみなさんが「この子が一番すごかった」と思ってもらえるようなパフォーマンスを目指しました。センターになりたい人間だったので、メンバーに負けたくない気持ちが強かったんです。

――メンバーは仲間でありライバルでもあるわけで、そのバランスは難しいところだと思います。

広瀬 今だから言えるんですけど、当時はメンバー全員で寮生活をしていたんです。退団するまでの6年間、一緒に共同生活をしていました。学校が一緒の子もいるから24時間、ずっと近くにメンバーがいる状態で過ごしていたんです。

 だから、意識的にプライベートな時間を作るようにしていました。仲は良かったんですけど、自分を含めて誰でも気分の波はあるわけで、例えば誰かが「今日、ダルいよね」と言ったら、その空気が伝染してしまうのが嫌だったんです。

――自分の気持ちが下がっていた時はどうしていました?

広瀬 人に相談するタイプではないので、メンバーに話すことはなくて。それでも落ち込んでしまった時は、親に泣きながら電話をしていました。