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日本の電子マネーの草分け「Edy」の開発

 そんな宮沢さんに、伊庭CFOはこうハッパをかけた。

「既に香港の地下鉄でも導入している。今後は日本でこれを普及させる。ハードウェアを売るんじゃない。カードは無料で配ってサービスで儲ける仕組みを作れ」

 誘われた当初は、自分が本当に役に立てるのか、悩みは尽きなかった。だが、香港のように乗車券を電子マネーで払えるようになれば、本当にあらゆる物を“タッチ”で決済できるビデオの未来が実現できるかもしれない。そう考えて、腹を括った。

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 そうして宮沢さんは、後に電子マネーの草分けとなる「Edy」の開発に没頭した。

 EdyはEuro(ユーロ)、Dollar(ドル)、Yen(円)の頭文字をとったものだ。当初は「サイフー」「ゼニー」「コバーン」など様々な案も出たが、世界に通ずる通貨をつくるというメンバーの心意気が、最終的な決め手となった。

 

 開発当初はカードの読み取りエラーが頻発するなど、困難を極めた。だが、99年にはオフィスや店が入る複合施設「ゲートシティ大崎」で実証実験を成功させると、伊庭副社長は50億円の出資を決断する。

 当時の出井伸之社長は、「やるからにはオールジャパンでやれ」と言い、2001年には電子マネーの開発をする新会社「ビットワレット」を設立。出資者にはソニーを筆頭に、トヨタやNTTドコモ、メガバンクなど日本の“勝ち組”企業が集った。

 利用者が一気に増えたのは全日空(ANA)との2003年の提携だ。

 ANAが発行するクレジットカードにEdyを付帯し、日常の買い物でもマイルが貯まる仕組みを作った。「陸(おか)マイラー」という言葉が定着し、「飛行機に乗らなくてもマイルをためて海外旅行にいける」という夢が利用者の心に刺さった。

 

今も尾を引くEdyとSuicaの「仁義なき戦い」

 だが、順風満帆に見えたEdyの未来に、ここで誤算が生じる。

 ここまで宮沢さんはEdyを、買い物を中心に利用されるものとして開発を進めてきていた。一方で、時を同じくしてJR東日本が推し進めていた「Suica」は、主に電車など交通系のインフラでの利用が中心のものだった。

 2社で勉強会を開き、1枚にEdyとSuicaの両方を入れたカードを作って「棲み分け」をすることなども検討していたが、急転直下、Suicaが2004年、一般の買い物分野での利用にも参入を決めたのだ。

「話が違う。我々は何のために電子マネーのノウハウを提供したのか」

 そう宮沢さんは詰め寄ったが、「上層部の意志」としてJR東日本の決意は固く、翻らなかった。

 そしてこの日本電子マネー界のパイオニア2社の間での綻びは、「国内での電子マネーの統一」という意味で、その後に大きな影を落とすことになる。

 なまじ双方のサービスがそれなりに受け入れられてしまったため、どちらも電子マネーの基軸に成り得なかったのだ。