好きな男の子の部活中の姿を見るのに忙しく……
案里は宮崎大学附属中学校に上がってから、合唱部に属した。この選択は、声楽家の母の影響だろう。だが、美術部にも顔を出していた。3階建ての校舎の裏手には、サッカーと野球が同時にプレーできるほどの大きなグラウンドが広がっている。美術部の部屋からは各部の練習風景がよく見えた。好きな男の子の部活中の姿を見るのに忙しく、作品を作っている暇なんかなかった。
案里は子どもの頃から絵画を習いに行っていた。現在、両親が住むマンションの居間には、案里が少女時代に描いた作品が大切に飾られている。講師は東京の女子美術大学を卒業した宮崎市在住の画家だった。その女性は案里に画才があることを認め、両親に美大への進学を勧めたことがある。ともにアートの世界で生きてきた両親はその時、誇らしく感じた。
しかし、案里は意に介さなかった。母には「親とは違う方向に行きたい」と言い、父には「生活が苦しくなるからまっとうな人生を歩みたい」と語った。
中学に上がったのは1986年。首相だった中曾根康弘の私的諮問機関が「前川レポート(正式名称・経済構造調整研究会報告書)」を発表し、日本の政治は経済の自由化や国際化を促す方向に大きく舵を切りはじめた。案里は政治家を目指すきっかけを語る際、その前川レポートを引き合いに出す。
この時期、案里は頻繁に海外を旅している。
羽振りの良かった父は毎年のように、設計事務所の従業員たちを海外旅行に連れて行った。そのツアーに案里が便乗することもあったため、彼女は幼くして世界を自分の目で見ることができた。中でもイタリア中部にあるアッシジという小さな町を訪ねた時のことを大人になっても鮮明に覚えている。
フランチェスコ聖堂の周辺を歩いていた時、たまたま出くわした一軒の八百屋があった。店先にはきれいな眼をした少女が立っていて、案里が小さなトマトを買おうと差し出すと、その子が丁寧に紙袋に入れてくれた。案里はその場で食べた濃厚なトマトの味と少女の輝いた眼が忘れられなかった。
アメリカの一般家庭にホームステイをしたこともあった。お昼のお弁当として持たされた紙袋を開けると、中にはピーナッツバターといちごジャムが塗られたサンドイッチ、さらにチョコレートバーとまるごと一個のりんごが入っていた。案里はそれを食べ切ったがアメリカンな食生活に面食らった。
案里はこれらの異文化体験を、国際政治を意識しはじめた原点として位置付けている。