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突然、全日本監督の座を降りてしまった
2年前から全日本女子バレーチームを率いることになった小島孝治はその年の5月、JOCが正式に五輪不参加を決めたものの、まだ一縷(いちる)の望みを捨てずにいた。
日本バレーボール協会専務理事の松平康隆が、何とか参加する方法がないかと八方手を尽くしているのを知っていたからである。
小島にはモスクワ五輪にどうしても出場したい理由があった。
74年の世界選手権、76年のモントリオール五輪、77年のワールドカップで3冠に輝いた山田は、80年のモスクワ五輪も率いることに内定していたものの、78年の世界選手権で2位になると、突然、全日本監督の座を降りてしまったのである。
山田にはしたたかな読みがあった。77年のワールドカップが終了した時点で白井貴子、松田紀子、前田悦智子などモントリオールの主力組がこぞって引退し、新しい戦力ではモスクワ五輪は闘えないとふんだ。その次のロサンゼルス五輪を狙い、この間にジュニアから育成する新たなチームを立ち上げようと考えていたのだ。
山田の突然の辞任劇に協会は慌てたものの、強く慰留する関係者はいなかった。