文春オンライン

「『我々の中の慰安婦』は、今まで誰も注目しませんでした」『反日種族主義』の著者が語る、1960年代まで存続した韓国軍慰安婦の実態

『反日種族主義 日韓危機の根源』より#1

2022/03/08

source : 文春文庫

genre : ニュース, 国際, 歴史, 読書

note

慰安婦の歴史的な蔓延

 日本軍が慰安所を設置し慰安婦を置いたのは、1937年から1945年までのことです。しかし、歴史を詳しく調べてみると、軍慰安婦は以前からずっと存在していたこ とが分かります。慰安婦という呼び方がなかっただけです。大きく見て、15世紀以来の朝鮮王朝時代からありました。

 また、1945年に日帝が敗れ韓半島から撤退した後でも、慰安婦は、我が社会の中でずっと存在していました。繁盛したと言ってもいいでしょう。しかし既存の研究は、その長い歴史の中で1937~45年の歴史だけを切り離し、日本軍の戦争犯罪だと責めています。そのため、史実に関する客観的理解に大き な問題が生じたのです。まず、解放後の慰安婦の歴史を説明します。

著者の李栄薫(イ・ヨンフン)氏 ©️文藝春秋

 1956年、韓国政府は、性売買産業に従事する女性を、ダンサー、慰安婦、接待婦、密娼の4つに分類しました。

ADVERTISEMENT

 ダンサーは英語そのままのダンサーdancerで、日帝期には芸妓と呼ばれました。料理屋で舞と歌を披露する女性のことを指します。慰安婦は英語ではプロティテュートprostituteで、遊廓や私娼街で性売買を専業とする女性です。一般的な呼び方は娼女です。日帝期には娼妓と呼ばれました。接待婦は英語ではエンターテイナーentertainerで、飲食店で客席に座り、客の世話をする女性を指します。日帝期には酌婦と呼ばれました。密娼は英語ではハルロットharlotで、カフェ、バー、茶房、旅館などで性売買をする女性たちを指します。日帝期には女給と呼ばれました。

 このように性売買産業に従事する女性たちを4つに分類することは、政府が毎年発表した『保健社会統計年報』で1966年まで続きました。

性病検診を受けた人数でわかる、私娼街の女性の増加

 表18-1は、1955年、1959年、1966年に性病検診を受けた彼女たちの部類別の実人数を表わしています。

 

 1955年には、総計11万642人の女性が性病検診を受けました。そのうちの6万1833人が性売買を専業とする慰安婦でした。この数値は、月末や年末など特定時点で働いた慰安婦の人数を表わすものではありません。私娼街に短期的に滞在した後、1年以内に出て行く女性が多く、どの程度が出て行ったのかは、場所と年度により違うため一概には言えませんが、私は約3分の1程度と見ています。

 1955年の場合は、1年以内に出て行った女性は約6万人の3分の1の約2万人なので、年末に実在した慰安婦の総数は4万人程度ではなかったのかと推測しています。とにかく、性病検診を受けた慰安婦の実数は、1955年の6万1833人から1959年の9万8891人へ、1966年の25万964人へと増加しました。性病検診の保健行政が強化されたことも理由として挙げられますが、私娼街の女性たちが急速に増えたのが主な原因であったことは否定し難いところです。