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回顧録に綴られた韓国軍慰安婦の記述

 複数の回顧録からも、韓国軍慰安婦に関するいくつかの情報を得ることができます。車圭憲(チャギュホン)という将校は、師団が送った慰安隊は、到着すると24人用の野戦天幕に収容され、簡易の仕切りが設置されたあと兵士たちと接した、と回顧しています。兵士たちは、天幕の前で列を作って順番を待ち、女性にチケットを渡してから慰安を受けました。

 金喜午(キムヒオ)という将校は、連隊から隷下の中隊に8時間ずつ働く6人の慰安婦を第五種補給品として送った、女性たちは連隊の幹部らが、士気高揚のため、大金をはたいてソウルから調達した、と書き残しています。このことから、韓国軍の幹部たちが慰安婦を、戦争遂行のための補給品として認識していたことが分かります。また、韓国軍が正式に編成した特殊慰安隊以外にも、部隊長の裁量によってソウルなどの私娼街で慰安婦を募集し、 臨時的に運営した慰安隊もあったことが分かります。

写真はイメージ ©️iStock.com

 韓国軍慰安婦について最も詳しい回顧録を残した人は、蔡命新将軍(チェミョンシン)です。黄海道が故郷の信心深いキリスト教信者で、解放後に共産主義体制の北から南に逃げて軍人になった人です。韓国戦争時は、敵の占領地域に浸透した南のゲリラ部隊を率いた勇将でした。後の朴正熙政権時代には、ベトナムに派遣された韓国軍の司令官も務めました。この人が『死線を越え、また越えて』という回顧録を執筆しました。その第五連隊の連隊長時代の話の中に、要約すると次のような慰安婦に関する回顧が出て来ます。

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 第五連隊が後方に退(ひ)いて来た。私は、武功を挙げて勲章を貰った将兵たちに、チケットを優先的に配分した。チケットを貰った19歳の朴(パク)パンド軍曹は童貞で、慰安部隊の天幕の中に入ることを頑(かたく)なに拒絶したが、分隊員らにむりやり押し入れられた。女性にイチモツを触られ、童貞であることをからかわれたため、朴パンドは逃げ出した。翌日、彼は再挑戦し、とうとう成功した。朴パンドは、チケットをもう1枚ほしい、と言って来た。我が部隊は再び戦線に投入され、朴パンドは惜しくも戦死した。

戦争の文化だった慰安婦

 この滑稽で悲しい事件のことで、蔡命新連隊長を責めないでください。彼は信心深いキリスト教徒でしたが、旗下の将兵たちに慰安婦を提供することには、何ら罪悪感を抱いていませんでした。それは戦争の文化でした。その戦線では、皆が歴史の犠牲者でした。天幕内の慰安婦も悲しい人生ですが、19歳で戦死した朴パンド軍曹の人生も、悲しいことでは同様です。朴パンド軍曹が乱暴な軍人で、かよわい女性の性を搾取した、と言えるでしょうか? 私は言えないと思います。私が軍慰安婦の存在を正当化している、と非難しないでください。私は、人間の歴史がはらむ矛盾と複雑性、現在も存在するその同時代性を指摘しているだけです。

©️文藝春秋

 1950年代の韓国人たちも、その点を鋭く認識していました。韓国軍は、特殊慰安隊を設立しながらも、「表面化した理由だけを以て(売春を禁止した)国家施策に逆行する矛盾した活動であると断案すれば別問題ではあるが」、戦争の遂行上、不可避なことである、と弁明しました。そして、戦争が終わると「設置の目的が解消するに至り、公娼廃止の潮流に応じて、1954年3月特殊慰安隊を一斉に閉鎖した」と言明しました。

反日種族主義 日韓危機の根源

栄薫, 李

文藝春秋

2019年11月14日 発売