終戦後も1960年代まで存続した私娼街の慰安婦
『保健社会統計年報』には、性病検診を受けた女性たちの年齢分布に関する情報があります。それによると、その4分の3が20代でした。これを利用し、政府が国勢調査を通して把握した20代女性の総数に対する慰安婦の比率を求めることができます。その結果は、1955年は3.2パーセント、1959年は3.2パーセント、1966年は8.1パーセントです。要するに、1950年代では、20代女性の33人に1人が私娼街の慰安婦であり、1960年代では、12人に1人がそうでした。実に少なからぬ比率であったと言えます。
前述の通り、韓国政府が『保健社会統計年報』で性売買を専業とする女性たちを慰安婦と規定したのは、1966年までです。つまり慰安婦は、1945年の日本の敗亡と共に消えたのではなく、1960年代まで存続したのであり、むしろ盛んであったのです。このような「我々の中の慰安婦」については、今まで誰も注目しませんでした。彼女たちは、間違いなく日本軍慰安婦の系譜を継いだ存在でした。「慰安婦」という言葉そのものが「日本軍慰安婦」から生まれたものです。したがって、彼女たちをよく調べると、日本軍慰安婦の実態が分かります。しかし、誰もそうしませんでした。そのため、 日本軍慰安婦に関する客観的認識に、大きな問題が発生せざるを得なくなったのです。
韓国軍慰安婦の“特殊慰安隊”
「我々の中の慰安婦」の中に、日本軍慰安婦をそのまま複製したものがあります。韓国戦争期の韓国軍慰安婦がそれです。1951年のあるときと推測されますが、韓国軍は将兵に性的慰安を提供する特殊慰安隊を設立しました。1956年に陸軍本部が編纂した『六・二五事変後方戦史(人事篇)』によると、特殊慰安隊は、将兵たちの士気を高揚し、性的欲求を長期間解消できないことで生じる副作用を予防する目的で設立されました。
ソウルに3個小隊があり、江陵(カンヌン)、春川、原州(ウォンジュ)、束草(ソクチョ)にそれぞれ1個中隊がありました。最前線の直ぐ後方の地域でした。特殊慰安隊の女性たちは、1つの地域に留まって行き来する将兵たちを受け入れたこともありますが、指示により、あるいは部隊の要請により、各部隊に出動して慰安を提供することもありました。江陵の場合、1つの中隊は8つの小隊で構成され、各小隊に配属された慰安婦は平均20人でした。その数値に基づくと、特殊慰安隊に所属した慰安婦の総数は700人程度と推算されます。
『六・二五事変後方戦史(人事篇)』は、1952年の1年間に慰安隊が挙げた慰安実績を月別統計で提示しています。ソウルの第一、二、三小隊と、江陵の第一小隊だけの実績です。これら四個小隊に属する慰安婦は89人でした。彼女たちが慰安した将兵の総数は20万4560人です。月平均では1万7047人、1日平均では560人、慰安婦1人当たりの1日平均は6.3人です。このように、韓国軍慰安婦に課せられた性交労働の強度は、1日平均6.3回でした。