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美辞麗句の並ぶ「道徳的決着」は効果的なのか?

 そこで教員が持ち出すのは状況証拠と被害者コメントからの事実認定、そしてそれまでの加害者の素行から割り出した「道徳的決着」である。その上で、最後にクラスでの共有という経路を辿る。教員室や会議では、

「この経験を通じて生徒を成長させるんです」

 という。それは多くの場合、心優しく他人を思いやれる人間に成長させる、ということを意味している。

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 私自身それを求めるよう学校や先輩教員から言われ、指導の参考としてきた。が、この美辞麗句のような決着が僅かでも効果的なのは小学校中学年くらいまでではないだろうか。人間が論理的ではなく感情に左右され、観念的というよりは経験主義的であることを児童・生徒は皮膚感覚で知っているのではないか。自己利益で動くのが人間だという前提に立った上で、社会にはルールがあること、それを犯せば罰則があることを先に教えるべきではないか。

 次の段階で人間同士のマナーや付き合いというものがあることを教え、それがわかった児童・生徒に「それでもなお、その犯罪を犯すのか?」「暴力行為をするのか?」「いじめをするのか?」と迫った方が意味を持つのではなかろうか。

「人の気持ちを考えなさい」だけを金科玉条のように求める行為は、極めて綺麗に見えるが、責任放棄をしているやり方に思えてならない。

写真はイメージです ©iStock.com

心の成長の場所を、生徒が選択する時代

 かつて、教員に対して暴言を吐きまくる女子高生B子がいた。

「てめえ、うぜえんだよ!」「死ねよ」と顔を合わせる度に言う。教員の大半は薄ら笑いを浮かべてどうにかその時間をやり過ごすという状態だった。そんな状況で、一人の生徒が不登校になった。

 理由は、教室が勉強できる雰囲気ではないから。詳しく聞くと、「先生がB子をきちんと叱らないからだ」と言う。その生徒は学校をやめ、別の学校に転学していった。

 このような事態は、塾や予備校ではほぼ起きない。オンライン授業では起きようもない。一流教師が、塾の教室で、あるいは画面のなかから、自己が克己したエピソードを上手に話したり、プロフェッショナルの姿を見せたりする。それによって生徒は、自分も頑張ろうと気持ちを新たにしたり、困難への耐性を付けていったりすることもあり得る。

 心の成長ができる場所も、生徒の側が選択すべき時代が来ているのである。

【前編を読む】生徒からのSOSがあっても“いじめ”を隠蔽、女子生徒の写真をPCに大量保存…現役教員が指摘する日本の学校が教育に向いていない“納得の理由”