登場人物たちは異様なほど身近でリアリティがある
「どうなんでしょう、いつもわりと思いつくまま書き進めて、整合性や筋道なんかは気にせず、あとから調整すればいいやというくらいの気持ちでやっていますね。書きつけている言葉のほうが『主』で、書いている自分のほうがそれに付き合っている『従』という感じでしょうか。
あと、立場や考えを決めつけないようにはしました。主人公の圭吾をいつもどっちつかずというか、悩みの渦中に置いておきたかった。彼と他の登場人物たちの考えも、あまり一致したり集約されたりしないよう放ってありますね。でもどこか大事なところで微妙に重なっていたりはして、それぞれの考えや感情がグラデーションになっていたらいいかなとは思って」
たしかに現実世界でも、人はそれぞれ好き勝手なことをしたり言い合ったりしているもの。たまに他人と重なり合う部分が見つかれば、妙にうれしかったりする。そうした日常感覚と近しい関係性が描かれているから、『きみだからさびしい』の登場人物たちは異様なほど身近でリアリティがあるのだ。
自分がいちばん心地いい認識の順番を探っている感じ
今作は長編ゆえ、隣人のような登場人物たちと、じっくり付き合っていけるのがうれしい。
「長編は初めてでしたけど、登場人物の生活に付き合っていくみたいな気分で、1年ほどかけて書いていきました。小説を読むのって案外疲れることだと思うので、読む人が疲れないようできるだけ読みやすいようにと気をつけながら」
そう、大前作品はとことん平易で読みやすいのも大きな特長。リーダブルであることには、かなり心を砕いているのだろうか。
「自分にとって心地いい言葉や音の流れというのはあって、それはキーボードを叩くリズムみたいなものとつながっていますが、それに従って無理なく出てくる文体を大事にしています。『私は赤いハンカチを拾った』という文章があったとして、『私が拾ったのは赤いハンカチだ』にするのか『拾ったハンカチは赤かった』にするかで、意味は同じであっても文章から受け取る印象は違ってきますから。ものごとを認識する順番が変わってくるということなのかな。自分がいちばん心地いい認識の順番を探っている感じです。