「お前さん、寒くないんかい?」
「よかったらうちでお茶飲んでいきな、あったまっていきな」
「うちで晩御飯食べてけ」
などと。
コロナ禍の交流
「最初は私のほうがびっくりして、遠慮してました。こんな怪しい、どこの誰かもわからない人を家にあげちゃダメでしょ、と自分でも思ったので。それでもたびたび声をかけてくださる方もいて、次第にお言葉に甘えるようになっていきました。一番びっくりしたのは、あるときやって来た除雪車がいきなり停まって、降りてきたおじさんがあったかい缶コーヒーを『これ飲んで頑張りな』と手渡してくれたこと。本当に寒い日だったので、とてもありがたかった」
皿洗いの住み込みアルバイトで1シーズンを終えた翌年は、廃校を地域おこしに活用している施設に泊まり込むことができた。雪がしんしんと降る夜、広い建物内にひとりでいると、音のない異世界に来てしまったかのようだった。そしてその静寂の中、屋根を滑落して地面に落下する積雪の轟音は本当に恐ろしかった。その闇夜の落雪を捉えたのが『雪の刻』に所収されている作品だ。夜を徹して夢中になって撮影し続けたというそれらのカットは、大げさかもしれないが深遠ささえ感じさせる。
津南で冬の何シーズンかを過ごしたのち、世はコロナ禍に突入した。東京と津南を行き来するのは難しくなりそう。そこで、最初の緊急事態宣言が開けたタイミングで新潟へ入り、それから1年間は東京へ戻らぬ決意を固めた。津南町の見玉という集落にある土産物店の二階スペースが空いているとの情報を得て、拠点をそこに置いた。
地元の人があれこれ助け船を出してくれた
生活に必須なので自分の車を持ってきた。東京ナンバーなので、駐車場に停めていると集落の人たちから、「あんた、東京から来たんかい?」と不安そうに聞かれた。
「そりゃそうですよね、時期が時期でしたから。集落は高齢の方も多いし、何とも言えない後ろめたさを感じました。苦肉の策として、車のナンバープレートの横に手書きで『津南町在住です』と大書したマグネットシートを貼っておきました。地元の人にはそれがおもしろかったみたいで、以降よく声をかけてもらえるようになりました」