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「語れるなら、語るべきだと思っています」福島県双葉町“住民ゼロの故郷”を案内しつづける25歳職員の決意

東日本大震災から11年 #2

2022/03/11
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「原子力 明るい未来のエネルギー」

 信号交差点に戻った。

「震災前、ここではダルマ市が開かれていました。交差点に高さ4m、重さ1トンの巨大ダルマを置き、両脇に綱をくくり付けて、南北で綱引きを行います。北が勝てば五穀豊穣、南が勝てば商売繁盛。町内では再開できていませんが、避難先では毎年1月に開催されていて、新型コロナウイルス感染症の流行で1年休んだ以外は続いています。すっごく盛り上がるんですよ」

 交差点から、駅とは反対方向に歩く。

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「ここには町民体育館がありました。田舎なので、昔は結婚式にも使われていたそうです。成人式、作品展、スポーツ大会、季節ごとの行事なども行われていたのですが、震災で壊れて解体されました。町民の思い出が詰まった施設もなくなっています」

ダルマ市で行われていた綱引きの写真を手に説明する小泉さん
町民体育館の跡地で

 さらに進むと、原発事故後に有名になったスポットがある。

 今はもう撤去されてしまったが、道路をまたいで「原子力 明るい未来のエネルギー」と書かれた広告看板が建てられていたのだ。1987年に町役場が建設。標語は町民から募集し、近くの小学6年生が宿題で考えたのを採用した。

 福島第1原発には6基の原子炉があるが、当時の町にはさらに2基増設に向けた誘致の動きがあった。その後、町による誘致活動は一度凍結されたものの、被災時の町長や町議会によって解除され、再び誘致が進められた。1~4号機建屋の爆発・火災事故は、そのさなかに起きた。

「原子力 明るい未来のエネルギー」の広告看板の跡地の近くには、標語の原作者が被災後の思いを掲示した看板がある

扉が閉じられ、真っ暗な図書館

 国道6号線の向こうに双葉厚生病院が見える。

「原発事故で避難指示が出た後、重症者や寝た切りの患者が40人、職員56人とともに取り残されました。人工呼吸器なども一緒に搬送しなければならず、避難は難航しました。迎えのバスを待っていた時に、原発の1号機建屋が水素爆発します。その音が聞こえ、空から断熱材の破片が落ちてきました。

 避難指示区域は最終的に原発から半径20kmに拡大されましたが、このエリアには病院や福祉施設が7カ所ありました。患者や利用者の中には長距離、かつ長時間の避難で命を落とす人もいました。原発事故のあった2011年3月の月末までに60人以上が亡くなっています。災害が多発している今、災害弱者の避難はここだけの問題ではないと思います」。小泉さんが声を強める。

 そこからは前田川沿いを歩いた。

「桜並木があり、春には菜の花も咲いて、ピンクと黄色のコントラストが美しかったんですよ。マス釣り大会も行われていました」

 川土手を下りると、町民グラウンドだ。

町民グラウンド。復旧工事の資材置場になっていた
町の図書館。階段ではなく、地震で出来た段差

「毎年9月に地区対抗で町民体育祭が行われていました。小さな町だからできた行事ですが、避難後は住民がバラバラになってしまい、再開は難しいのが現状です」

 隣には町の図書館がある。休校中の県立双葉高校の生徒らが勉強のために立ち寄るなどしていた場所だが、扉は閉じられ、屋内は真っ暗だ。

「地震で大きな段差ができて、今もまだ直っていません。多くの人が驚きます」と、小泉さんが話す。